乃至全く類を異にする實在者の象徴を兼ねるといふやうな多義性・不連續性は存在しない。しかるにかくの如き事態は宗教的象徴の場合においては發生するのである。尤も神の愛が單純なる事實となり永遠性のみが純粹に存在の性格をなすに至つたと假定すれば――かくの如き事態は後にも説く如く宗教的主體の切なる希望の對象であるに相違ないが――假りにこの事態が實現されたとすれば、一切の存在は、直接的にしかも殘る隈なく餘す蔭もなく、神聖者を顯はにする象徴となるであらう。そこでは、現實の世界においては避けられぬ或る程度の間接性、即ち觀念と觀念との間に存する多義性、一がそれ自らでありながら更に他と聯關しつつ他を表現し又は他によつて表現され、更にいづれも内容的他者でありながら同一自己性の表現としての性格を擔ふといふ程度の多義性さへも全く跡を絶つ。かくの如き純粹なる徹底的なる共同は宗教的用語が「神を見る」と名づけるものである。しかしながら現實の生はこれとは正に反對の事態を示してゐる。神聖なるものは現實の世界においては徹底的に、いはば二重に二次元的に、隱れたるものである。ここでは一切の存在は時間性を本質的性格として持ち、從つていかなる存在も直接的に一義的に永遠者の象徴ではあり得ない。この世の言葉は決してさながらに神の言葉ではありえぬのである。しかもこの時間的の生世俗的の世において神の愛は事實とならねばならず、永遠は顯はとならねばならぬ。すなはち時間的世俗的の存在は先づ自ら無に歸して隱れたる神聖者永遠者を顯はにする器として新たなる有を得ねばならぬ。しかしながらあらゆる存在は現實的生の續く限り依然自己本來の意味自己の舊き姿を保存する。野の百合は飽くまでも百合であり空飛ぶ鳥は飽くまでも鳥である如く、この世の生は飽くまでも自己實現でありこの世の愛は飽くまでもエロースである。それ故神の愛の現實化はこの世の姿この生の性格をそのままに留保しながら、しかも同時に他方それに、徹底的に隱れたるもの超越的なるものを顯はにし内在化するといふ任務を負はせねばならぬ。これが宗教において「啓示」と呼ばれるものである。それ故啓示は多義的不連續的いはば曲線的屈折的なる象徴である。具體的にいへば、神聖なるもの永遠的なるものは或は物或は人或は出來事として、或は歴史において或は自然において、啓示される。又異なつた對象が同時に啓示となる場合には啓
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