。しかしながら信仰のこの本質は、人間の現實的生が全く時間性の支配の下にあり永遠性は單純なる事實として實現を見てゐないことによつて、特異の發現を遂げねばならぬ。このことは勿論、神の愛が單純なる事實として何人の目の前にも現前してゐるのではないといふことと、密接に聯關する。吾々は今この點に考察を向けようと思ふ。
 神の愛が單純にさながらに事實となつたとすれば、永遠性のみあつて時間性のなき存在が現はれるであらう。しかしながら人間の現實的生は飽くまでも自然的生の上に築かれ飽くまでも時間性を本質的性格としてゐる。從つてこの世の愛はエロースであり自己實現であり活動である。しかも、この根も幹も枝も葉も人間的なるものが、新たなる地に培はれることによつて、かなたの世にはじめて咲き出るであらう全く思ひがけもなき變り種の蕾を結ぶに至る。しかしてこの「不思議」この「奇蹟」は神の側よりいへば啓示として人の側よりいへば信仰として行はれるのである。「啓示」は隱れたるものが顯はになり超越的なるものが内在化することである故、廣き意味においてはあらゆる象徴は啓示と呼びうるであらう。實在者は他の實在者をわが内に容れることなく、後者は前者に對して超越的であり隱れたるものである。兩者の交はりはただ象徴によつてのみ行はれる。しかして象徴は一の内にあつて他を代表し指し示すものである故、それは又隱れたるものを顯はにするといひ得よう。しかしながら宗教的用語としての啓示はかくの如き場合をいふのではない。神聖者との交はりが主體のあらゆる存在の徹底的象徴化であることに應じて、徹底的に超越的なるもの徹底的に隱れたるものの内在化のみが、ここでは啓示の名をもつて呼ばれる。自然的文化的生においては、主體の生内容乃至客體内容が實在的他者の象徴であり、乃至象徴として實在的他者に歸屬せしめられるが、この象徴性は一義的直線的である。若し立入つて論理的認識論的分析を施せば、實在者に對する遠近の別は現はれ、思惟による觀念的内容の聯關は、それ自らによつてではなく更に根源的なる内容即ち體驗内容と聯關せしめられることによつてのみ、象徴性を得るであらう。しかしながらこの聯關は、吾々の用語をもつてすれば、むしろ表現關係であり、象徴性はその場合においても飽くまでも一義的連續的である。そこには、一つの實在者の象徴である内容が、そのことにも拘らず、同時に他の
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