して他者において他者よりして生きるところに、人格性は成立つのである。
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(一) 語學的乃至文獻學的諸問題に關しては 〔W. Bauer: Gr.−deutsches Wo:rterbuch zu den Schriften des N. T. u. s. w.; Gerh. Kittel: Theologisches Wo:rterbuch zum N. T. Bd. I.〕 參看。但し語學的文獻學的觀點より觀たのみでは到底問題を解決し難きことは、プラトンが(SymP. 180 b)〔agapao_〕 を殆ど 〔erao_〕 や 〔phileo_〕 と同義に用ゐてゐる一例によつてもすでに證明される。――Nygren: Eros und Agape. 〔2 Ba:nde〕. は類型論的論究とキリスト教における發展の歴史的敍述とを兼ね備へたものとして、アガペーの觀念に關して最大の貢獻をなした書である。ただ「神への愛」にそれの重要性にふさはしき評價と理解とを寄せ得なかつたことが、この書の惜むべき缺點である。
(二) 所謂「隣人愛」(〔Na:chstenliebe〕)はこの意味においてのみアガペーの實現形態となり得る。
(三) Eth. Nic. IX, 8.
(四) アウグスティヌスに關しては「宗教哲學」三九節、及びその後に現はれた Nygren 第二卷の卓れたる敍述及び解釋、參看。
(五) 「人格」に關しては「宗教哲學」二九節以下參看。
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      二 神聖性 創造 惠み

        三五

 アガペーの本質的特徴が以上の如くであるとすれば、ここに極めて重要なる歸結が現はれて來る。それは、アガペーにおいて共同の對手として立つ他者は可能的自己の性格を保つこと無き眞實の他者でなければならぬ、といふことである。しからば、それがエロースにおいての如く觀念的存在者であり得ぬこと、むしろ反對に、實在的存在者でなければならぬことは、おのづから明かであらう。しかるに今までに知り得た實在的他者は、主體と自然的直接的交渉において立つ自然的實在者の外にはなかつた。若しそこへ立戻るとすれば、そのことは文化的生によつて試みられた共同のためのあらゆる努力の無意味と、しかして生の原始的自己爭鬪の有意味とを、宣言するに等しいであらう。生がここに最
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