)の一種、ただ最も卓越した一種に過ぎぬ。すべての愛は自愛であるといふ根本的性格においては變りはないが、ただ對象を異にするのである。愛の對象は善即ち價値である。最高價値即ち神へと向ふ愛が、乃至人への愛としては神への愛の特殊の從屬的發現形態と見るべきものが、カリタス(アガペー)なのである。若しかくの如くであるとすれば、エロースとアガペーと間には、ただ程度的部分的相違があるのみであらう。價値は主體の自己實現の制約乃至契機をなすものとして觀念的存在者である。かくてアウグスティヌスが共同の對手としての實在者を殆ど見失はうとした點も注意に値ひする。愛の對象である限りにおいては神も人も結局觀念的存在者、プラトンがイデアと呼んだものに過ぎぬであらう。さてかくの如きがエロースの思想の行くへであることはすでに述べた通りである。
 以上述べた所と聯關して又それの歸結として、アガペーの第二の特徴をなすは自己抛棄、犧牲、獻身、去私、沒我、等の語によつて言ひ表はされたる主體の態度である。尤もいかなる愛も他者との共同である故、いづれの場合にも自己性の或る形或る程度の克服はあり得る。卑近な一例を取れば、財を蓄積するために肉體的感能的快樂を擲つも一種の自己克服であるに相違ない。しかしながら、かくの如き場合においては、否遙かに高尚純潔なる場合においても、いつも一つの自己が他の比較的價値の高き自己のために犧牲に供せられるに過ぎぬ。そこには部分的自己の相對的抛棄があるのみである。しかるにエロースとは方向を全く逆に取るものとしてアガペーにおいては、自己の全體性の無條件的抛棄が要求される。尤もこのことは決して人間的偉大さを示すやうな花々しき英雄的動作や人を驚かせるやうな目ざましき歴史的大事件を特に意味するのではない。それは日常萬般の些細なる事情の下平凡なる行爲においてもそれを活かす精神としていつも要求されるのである。すなはち、あらゆる人倫的間柄において對手において人格を見、人格に對して取るべき態度を取るのがアガペーである。人格を簡單に定義すれば、カントに從つて、手段として用ゐられることなく自己目的としてのみ成立つもの、といひ得るであらう(五)。これを言ひ換へれば、他者は飽くまでも他者として留まり、自己實現の一契機に墮ちることがなく、それとの共同において主體はいつも他者を本とし他者より出發し、從つて自己性を投出
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