)。この空間性こそ一切の互に相容れぬ自と他との關係の典型であり根源である。主體と他者との共同即ち和合合一はここに見出すべくもない。それどころか、むしろ共同の破棄絶滅こそ徹底したる自然的生の落着く先である。主體性の兩面性はここでは極めて露骨なる自己矛盾として暴露してゐる。更に又時間性及びそれの缺陷や矛盾もここに源を發する。將來(他者)との關係によつて存在を保つ現在(主體)は同じ關係によつて又過去へ非存在へと押遣られる。有はいつも無に歸し、來るものはいつも去り、一切は時の流れに誘はれて果てしなき壞滅の道をたどる。時間性の克服は自然的生のこの自己矛盾よりの解放でなければならぬ。
この解放こそ文化的生の志す所である。すでに論じた如く、主體が實在する他者との直接的交渉より離脱しその交渉の齎す自滅の危險より解放されて、自由の天地に飽くまでも自己主張を續けようとする所に、文化的生の本質は存する。今や主體は對手との間に何ものかを置くことによつて直接の衝突を避け、かくして共存共在を成就しようとする。客體こそかかる中間的媒介的存在者である。さて共同の成立に際し媒介の役を務めるものは、共同の形相乃至段階が異なるにつれて、多種多樣である。アリストテレス(二)はかかる媒介者を「ト・ピレートン」(〔to phile_ton〕 愛せらるべきもの)と呼び、「善」と「快」と「有益」との三つを擧げた。しかしながら、單にかくの如き普遍的なる價値觀念に限らず、特殊の固定したる人倫關係乃至はかかる關係における特殊の資格、次に又流動的なる諸關係例へば「隣りの人」乃至はその反對として「遠き人」(遠き後の世の人)など(三)、更に諸種の思想・法則・理想など、皆ピレートンであり得る。これらは共同の成立乃至維持に對し制約や理由を提供し、かくて又各種の共同の姿と内容の特質とを規定する。特に強調せらるべきは、これらの條件や規定を媒介としてはじめて共同が成立つこと、從つて共同における直接の對手はそれらであつて、それらによつて媒介される實在的他者ではないことである。今愛を主體の態度の側より觀れば、それは他者無くしては自ら有るを欲せぬこと、他者によつて規定されるものとして自己を規定し自己の存在を主張することと呼び得るであらうが、その場合の他者はいつも直接には媒介者そのものである。直接性を擲つことによつて、しかし同時に新たなる直
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