接的交渉に入ることによつて、はじめて共同と愛とは可能となる。今かくして成立つ共同をプラトンに從つて術語的に「エロース」(〔ero_s〕)と呼ぶならば、エロースこそ文化的生の段階において、尤もそこにおいてはじめて、成立つ愛である。
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(一) 一五節參看。
(二) Ethica Nicomachea. VIII, 1155 b.
(三) ニーチェはキリスト教神學の 〔Na:chstenliebe〕 に反抗して”Fernstenliebe“(將來に生きる創造的愛)を説いた。〔Also sprach Zarathustra. I Teil: ”Von der Na:chstenliebe.〕“
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        三三

 共同と和合とはいふまでもなく全く相離れたるもの全く孤立してものの間には成立ち得ない。主體は關係交渉によつて他者と結び附けられねばならぬ。しかもこのことは直接的接觸を必要とする。間接性は直接性の基礎の上にのみ成立ち得る事柄である。自然的生の特徴は一切が直接的である點に存する。そのことの歸結として實在者は實在者と衝突し、かくて相携へて壞滅の道を進まねばならぬ。文化的生の任務は媒介者を中間に置くことによつて、言ひ換へれば、新たなる他者と直接的交渉に入ることによつて、衝突の危險を克服して和合一致を成就するに存する。かくあるとすれば、吾々は更に進んでこの他者が又それとの交渉が、どのやうなものであるかを究めねばならぬ。論じ來つた所によつて極めて明かである如く、かかる媒介者は客體としての他者以外にはあり得ない。しかるに客體の存在の仕方は觀念的のそれである。かかるものとして他者は、主體にとつては、それにおいてそれを通じて自己を主張する所のもの、即ち主體の自己實現の契機に外ならぬ。客體的他者は本質上主體の勢力範圍に屬し、主體と特に親密なる間柄に立つ。すなはちそれの本質的意義は可能的自己であるに存する。主體(自我)は客體を己のうちに取入れ、己のものと否己れ自らとなすことによつて、主體性を貫徹する。他者性が自己性のうちに吸收されることによつて、主體と他者との衝突も爭鬪も取除かれ、和合と共同とは可能にされる。エロースとしての愛はかやうにして自己性の擴張によつて成立つのである。それはいかなる對手においてもいつも自己を見出す。他者はいつ
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