高盾窒奄=jにおいて成立つ。云々。基礎的段階をなす自然的時間とそれの上に建設される文化的時間との區別に、アウグスティヌスが想ひ到らなかつたことは確かにこの説の缺陷である。「期待」は自然的時間における將來に對應するとして許されようが、「記憶」は、後に論ずる如く、文化的歴史的生の段階に屬する働きである。しかして文化的生が自然的生よりの解放の企圖を意味することを思へば、上述の如き缺陷と聯關して、かれの説いた「時」が單純孤立の状態にある主體の生き方を意味するに過ぎなかつたことは、當然の事態といふべきであらう。彼は將來が、實在的他者との關係交渉において自己の存在を維持する人間的主體の生き方を示す、といふ眞理を認識し得ずにをはつた。彼が永遠を時と單に區別し對峙せしめるに止まつて、それとの活きた聯關において眞にそれの克服者として理解し得るに至らなかつたのも、同一缺陷の發露である。
 ベルグソン(Bergson)の才氣溢れる「時」の論において吾々は、派生的第二義的意義しか有せぬ表象より根源的體驗において與へられる時の根源的姿に立戻らうとする、正當なる努力を認める。彼が實踐的目的に向ふ、從つてその意味において將來に向ふ、主體の動作を根源的體驗より遠ざけようとしたことも、今それに聯關する特色あるかれの形而上學的所信を考慮の外に置くならば、文化的時間を第二義的のものとする點においてたしかに正當である。又同樣にかれの形而上學を離れて考へれば、かれが時を「持續」において成立つとしたことも又時における内容の融合滲透を説いたことも、空間的に表象される客觀的時間より特に體驗的時間を區別し後者の根源性を強調しつつ、それの延長性それの内部的構造を主張したものとして、識見の卓拔を思はしめる。しかしながら彼が根源的體驗における時より將來を抹殺したことは勿論謬見である。そのことの結果として「持續」は過去と現在とのみより成立つものとなる。この場合過去は正しき順序を顛倒して現在に先立つもの從つて後者に對して存在を補給するものとなる。すなはち過去の内容は現在のそれと融合滲透を遂げつつ持續換言すれば包括的現在を成立たしめる。過去の内容は記憶に俟つ外はない。かくては持續としての時は文化的時間より將來を取除いたものに過ぎぬであらう。さてすべてこれらの事どもはいづこに源を有するであらうか。いふまでもなく、主體が單獨孤立の
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