淨なるもの、單純なる姿のもの、いつも自己と同一なるもの、永遠的・不死的・神的なるもの、しかして他はすべて反對の性格を擔ふものである。靈魂は第二の即ち地上の存在者に屬する。しかしながら、永遠的存在者と同じ族に屬するものとして、それは天上高く、死せぬもの變らぬもののもとに昇り、いつまでもそこに留まり、それと交はることによつてこの世の流浪を免れつつ、自らもいつも同一なる存在を保つ。云々。吾々はここに純眞なる觀念主義者の典型的體驗の告白を聽いて、深き感激に打たれる思ひする。しかるにプラトンが靈魂の不死性と考へたものは、かくの如くいかなる刹那にも、勿論生の眞中において、達せられ得る魂ひの向上永遠者との合一ではなく、却つて死後實現せらるべき無終極的存在であつた。上に述べた思想はかれがこの意味における不死性を證明すべき一論據として展開したものに過ぎないのである。しからば永遠的生が地上において獲得されぬ理由はいづこに存するか。靈魂が身體と共同生活を營み、從つて純粹の觀想に生き難いによるのである。すなはち、純粹の觀想乃至永遠者との完全なる合一が、既定の事實としてはじめより現實的であらぬ限り、練習(〔melete_〕)が必要となる、しかもこの練習は死後はじめて實を結ぶのである(八)。さて、練習はいふまでもなく時間的活動としてのみ成立つのではなからうか。それの目的が死後に達せられるといふは、純眞なる觀念主義の立場よりみれば、達せられぬと告白すると何の擇ぶ所があるであらうか。自らの力を恃みて、或は高次的實在者・永遠者をわがものとなすことにより、或は自らすでに神的であり超時間的であることにより、この世よりの解脱や救ひを計る人間的主體は、絶望の一語をもつて報いられる外はないであらう。
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(一) キリスト教經典においてはコリント後書三ノ一八がこの思想を示してゐる。なほ次の諸書參看。Bousset: Kyrios Christos1[#「1」は上付き小文字]. S. 197 ff.(”Vergottung durch Gottesschau“ といふ見出しの處)。――Reitzenstein: Die hellenistischen Mysterienre Iigionen3[#「3」は上付き小文字]. S. 357 f. ―― J. Weiss: Urchristentum
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