じ思想を言葉美しく表現したものに外ならぬ。なほ彼に從へば、永遠的神的なるものを觀ることによつて自らも永遠的神的となる魂ひは、實は忘れたる故郷に歸り行くのである。スピノーザに從へば、客體と主體との一致乃至合一を意味する認識は、實體(substantia)の同一性一元性によつて根據づけられる。人間の永遠性は神への直觀知及びそれの直接的必然的歸結である神への知的愛より來り、かれ自ら神の永遠的樣態(aeternus modus)であることに基づく。從つて人の神に對する愛、永遠的愛、は神が自己を愛する愛と同一である。云々。
さてこの思想、文化主義の魂ひの泉より迸り出たこの思想を文化的生の基本的性格をなす自己實現と結び附けて眺める時、吾々は次の如き事態が直ちに眼前に現はれ來るを見るであらう。主體の自己表現のある處には必ず現在があり存在があり同一性がある。これらは皆等しく自己性に基づく。しかるに自己性は自己實現の活動によつてはじめて現實的となる。主體がはじめより即ち現實的にのみ超時間的であるならば、勿論問題は存せぬであらうが、かかる主體は實は純粹客體となつた主體、主體のイデア、主體性に過ぎず、それの無時間性超時間性はむしろ自明の事柄であるが、そのことの代償として、それは現實的に主體であるを止めたものである。アリストテレスやプロティノスの nous ヘーゲルの Geist(精神)の如き實は皆これである。それらは超時間的なる自己觀想――アリストテレスの用語に從へば、〔noe_sis noe_seo_s〕――として存在し、客體としても主體としても超時間的ではあるが、すでに述べた如く、かくの如き單に觀られるだけの超時間性無時間性は時間性に喘ぐ現實の主體にとつては單に畫かれたる餅に過ぎぬであらう。主體が客體と根柢においては同一乃至同種類であり從つて等しく超時間的であるとすれば、かくの如き自己かくの如き本質は實現されて現實的形相とならねばならぬ。しかるにそのことは主體の活動を從つて時間性を意味するのである。それ故強ひて永遠性や不死性を求めるならば、無終極的時間性のそれ以外にはないであらう。プラトンの靈魂不死性の一論證は、この事態を明瞭に反映してゐる點において、吾々の注目を呼ぶ(七)。彼は純眞なる觀念主義の立場に立つて二種類の存在を説く。一は肉眼に見えぬもの、あらゆる地上の汚れを拭ひ落して清
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