在を置き棄て、無時間的超時間的客體として永遠の世界に新しき住居を見出すであらうが、それにも拘らず、時間的存在を保つものは依然として同じ存在を繼續せねばならぬであらう。時間性の觀念が超時間的であることは時間的存在者が依然時間的であることに何の影響をも及ぼさぬであらう。高次的實在者は、客體的觀念的存在者がそのままの姿で實在者の位に高められたるものとして、本來主體性を缺く。それには時間的存在者に働きかける活動性が缺けてゐる。力・活動・發展・原因・主體・客體等のイデー・形相・範疇が、靜かなる永遠の世界に仰ぎ見らるべき高貴なる光り輝く存在を保つてゐるとしても、吾々が現にそれの中に生きてゐる可滅的時間的世界は、それより何の御蔭を蒙ることもないであらう。若し高次的實在者が――通俗的にいへば、神が――直接に客觀的實在世界において高次的絶對的主體として活動するといふことならば、吾々はすでに論評した内在的形而上學的世界觀としての所謂有神論に立戻らねばならぬであらう。しからば、時間的世界の眞中に活動する實在者がいかにして時間性より自由であり超時間的性格を保ち得るか、といふ反對の方向よりの難詰は直ちに襲ひ來るであらう。
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(一) 一〇節、一四節以下參看。
(二) 一〇節、二六節參看。
(三) 「宗教哲學」一五節以下參看。
(四) 二六節參看。
(五) 拙著「スピノザ研究」參看。――ヘーゲルの辯證法はこの問題に答へようとするものであるが、かれの説いたすべての聯關すべての發展は觀念世界の事件に過ぎぬ。「すべて合理的なるものは現實的であり、すべて現實的なるものは合理的である」といふかれの言において「現實的」或は「實在的」はプラトンの 〔onto_s on〕 に外ならぬ。
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        三〇

 尤も超時間的實在者――神――を觀ることによつて、觀想乃至直觀によるそれとの結合共同合一などによつて、人間的主體自らが超時間的永遠的神的と成るといふ思想は、古今の宗教及び哲學を通じて甚だ廣く行はれてゐる。純粹なる嚴密の意味における神祕主義はこの傾向の徹底したるものに外ならぬが、そこまで、即ち神と人との完全なる合一といふ點まで進まず、神祕主義的傾向乃至性格を有する程度に止まる諸思想においても、永遠性の問題に注意が向けられるとともに、單に客體ばかりでなく人間的
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