主體の永遠性が説かれるが常である。宗教史上最も色どり豐かなる最も生氣に富む殆どクラシック的と稱すべき時代を形作つた、ヘレニスティク時代に廣く行はれた一思想は、「神を見ることによつて神と成る」といふのであつた(一)。哲學者のうちでは吾々はプラトン、スピノーザ、フィヒテ等を擧げることが出來よう(二)。「有限性の眞中において無限者と一になり、一瞬時において永遠的である――宗教の不死性はこれ」といふ、人口に膾炙するシュライエルマッヘルの言は、同じ思想を簡潔に印象深く言ひ表はしたものに過ぎぬ(三)。
 この思想はいづこより來たであらうか。言ふまでもなく觀想の本質より來たのである。觀想において主體の對手は觀念的存在者としての客體である。活動としての性格は蔽ひ隱され、主體は顯はとなつた自己の透き徹つた形相の前に立つ。客體は固有の實在的中心を缺く奧行きも底もなき平面的存在者として、主體と、あらゆる隔りや暗さの克服されたる完全なる合一に入ることによつて、それ本來の使命を完うする。しかしてかくの如き客體の本質的性格をなすのが無時間性である。これは客觀的時間の無終極性に基づく不死性や(僞りの)永遠性の如く推理や信念の事柄ではなく、直接に現に今客體の性格として體驗される事柄である。そればかりか、無終極性が未完成從つて不滿足の連續を意味したのに反して、ここでは主體は、過去も將來もなき純粹なる現在に安住しつつ完成されたる生の歡喜に浸ることが出來る。しかもその生は客體との合一としてのみ完成を告げる。無時間的存在者の觀想において主體が自己の超時間性をも體驗し得るやうな氣持ちを味ひ得るのは謂はれある事である。しかしながらそれは結局氣持氣分に過ぎぬ。眞實に體驗するは單に客體の無時間性のみである。高次的實在者が眞に實在者であるならば、主體のそれとの直接的合一はもとより不可能の事である。主體は自己の中心を守り超時間的存在者も他者の侵入を拒む以上、兩者が、この場合特に主體が、外面的接觸以上に進むことははじめより禁ぜられてゐる。それ故超時間的存在者が合一を許すとすれば、そのことはそれが觀念的存在者としての資格においてのみなし得る事である。かくて問題は後戻りする。觀念的存在者が主體の超時間性を惹起しも保證もなし得ぬことは、もはや繰返すを要せぬであらう。
 しかしながら殘つた道がなほ一筋ある。それは體驗より更にそ
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