高次的實在者へと、還元しようとする。しかるにそのことは超越なしには不可能であり、超越は高次的客體によつてなされねばならぬ故、結局は内在的形而上學も超越的形而上學によつてのみ形而上學の資格を得るのである。それ故觀念主義の形而上學以外に形而上學は無いといつても過言ではないであらう。さて觀念的存在者は、純粹の本質においては、殘る隈なく顯はなるものとして、何ものかがその中に入り來るを拒む隱れたる中心、實在者としての中心、を全く缺く故、それを直接に實在者の位に据ゑることは本來禁じられてゐる事柄である。しかもプラトン以來數多くの大思想家たちがこの許されぬ道に踏入つた事實は、實在者との交はりによつてのみ生は成立つこと、從つて實在者への希求は人間性の最深最奧の本質に根ざすことを教へる。究極まで押詰めれば、高次的實在者において滿足を見ようとするはもと宗教的要求である(三)。このことの立入つた論述はここでは割愛せねばならぬが、その要求が觀念主義の形而上學的宗教によつてではなく人格主義の愛の宗教によつてのみ充たされる如くに、永遠性への憧憬もここではつひに滿足を見ずにをはらねばならぬであらう。
 すでに有神論の世界觀に關して述べた如く(四)、高次的實在者が本來觀想の對象である以上、それの超時間性が果して又いかにして人間的主體の時間性の克服に役立ち得るか、は甚しく疑問である。高次的實在者が時間的制限より解放されてゐると認識することは、しか認識するものがその制限に服從してゐることと、何の矛盾をも來さぬではなからうか。しからば今高次的實在者が、時間性の世界と關係交渉に入ることによつて、人間的主體を上の世界に引上げる、といふやうな事柄を想像して見てはどうであらうか。觀念主義の形而上學にとつて何事にもまさる難事は、永遠的なるものと時間的なるものとの間に聯關を設けることである。プラトンをはじめとしてスピノーザやヘーゲルなどに至るまで、すべて二種類の存在の思想に忠實であつた思想家たちは、等しくこの問題に躓いた(五)。彼等は解決を試みなかつたのではない。しかしながら單に聯關を説くこととそれを理解し得る事柄にすることとは決して同一でないのである。それどころか、假りに解決が成功して聯關が眞理として認識されつつ設定を見たとすればどうであらうか。そのことによつて聯關そのものも聯關の一端に立つ時間性もともに時間的存
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