ヤ性

        二七

 吾々はなほ文化的生の領域に留まる。しかしながら活動はこれを後ろに見棄てねばならぬ。殘るは觀想である。吾々が觀想及びそれの時間的性格について語つた所は大要次の通りである(一)。觀想も一種の活動である。ただそれは自ら活動でありながら活動の性格を脱却し克服することによつて文化的生本來の志向を貫徹しようとする。そのことは主體が自己表現を成就して他者を自己性の實現の從順なる器と化せしめるを意味する。客體は主體を表現し盡し主體は殘る隈なく顯はとなることによつて、もはや働きかける自己性も働きかけられる他者性も跡を留めず、自己性と他者性との間の緊張動搖は全く解除を告げるに至る。自らの隱れたる中心を有せぬ觀念的存在者としての本來の性格を完全に發揮し得た客體に對し、主體は靜かに息ひつつ客體の澄み切つた顯はなる姿に見入るのみである。これが觀想である。觀想において文化的生の時間的性格も徹底を見る。文化的生においては主體とそれの「現在」とが一切を支配し、過去も將來も現在の内部的構造を構成するものとしてそれによつて包括されてゐる。しかるにこの内部的構造は、客體面において自己性と他者性との兩契機を代表する二つの領域が區別されつつ併び存し、兩者の聯關において活動が成立つより來るのである。然らば今活動としての性格の克服は何を意味するであらうか。それは過去と將來とを包括する内部的構造の崩壞を意味するであらう。言ひ換へれば、觀想の時間的性格は純粹の現在、過去をも將來をも知らぬ單純なる「今」でなければならぬであらう。そこでは「あつた」とか「あらう」とかいふやうなことは全く無く、ただ「ある」といふことのみあるであらう。純粹の現在はまた純粹の存在、内にも外にも非存在をもたぬ絶對的存在であるであらう。
 これこそ昔より哲學が「永遠」と呼び來つたものに外ならぬ(二)。パルメニデスにおいては永遠といふ名こそないが、思想そのものはすでに明瞭にあらはれてゐる。その語をはじめて用ゐたのは多分プラトンであらう。プロティノスはこれらの人々の築いた基礎の上に立つて周知なる概念的規定を試みた。かれの思想はプロクロス、アウグスティヌス、ボエティウス、トマス・アクィナスなどを通じて中世以來の思想を全面的に支配してゐる(三)。かれ以後今日に至るまで眞に新しと見るべき思想は未だ現はれぬといつても過言でな
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