o發し、ただそれがそれの存在理由に副ひ得るか、課せられたる任務を果し得るか、を問へば足りる。すなはち吾々がここに問題となすべきは、有神論の世界觀がはたして人間的主體の本質よりの要求である自己主張の貫徹自己實現の完成を保證し得るかである。吾々の答は勿論否定的でなければならぬ。有神論は一個の世界觀である。それは觀想の立場に立つて、世界の秩序が、又その秩序において自己を表現する絶對的主體が、何であるかいかにあるかを教へようとするものである。この立場においては人間的主體は結局傍觀者の地位に甘んぜねばならぬ。神は必ず自己主張を貫徹し自己の活動に終極と完成とを齎すといふ。假りに眞に然りとするも、それは神といふ他者の事客觀的實在者の事、人間的主體にとつてはよそごとである。人間的主體がその活動の完成に參與し得るかは必ずしも明かでない。それは事實として依然時の眞中に生き死及び壞滅の暴威に晒されてゐる。それの體驗するは完成に達することなき自己の活動のみである。今試みに一歩を進めて人間的主體が世界的實在者の自己實現に參與すると假定しよう。しからばこの事は、神が一定の限られたる期間人間の文化的生において自己を表現するを意味する外はない。しかるに自己表現者が人であらうと神であらうと、生そのものの本質的性格が變革刷新を見ぬ以上は、時間性の克服は到底絶望である。しかしてこのことは吾々を最後の根本的の點に導く。他者、この場合神、は客觀化され擴大され、優越性を意味する種々の屬性や稱呼をもつて飾られてゐるにせよ、本來文化的主體であるを本質とする以上、時間性に關しては人間的主體と全く同一性格を擔ひ同一地盤に立たねばならぬ。かくの如き他者の活動が、人間的活動をそれの本質より來る不完成性斷片性より解放するとは、はたして望み得る事であらうか。それどころか、かくの如き他者そのものが、はたして自ら時間性の桎梏に呻くを免れ得るであらうか。答は明かに「否」である。かくて吾々は客觀的實在世界とそれの「僞りの永遠性」とに斷然訣別を告げねばならぬ。
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(一) 以下の論述に關しては「宗教哲學」の諸處、殊に一五節以下、二七節以下、四五節參看。
(二) 本書一〇節參看。
(三) 所謂有神論に關しては「宗教哲學」二七節、二八節、特に四五節參看。
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    第六章 無時
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