レることなしにまつしぐらに彼方へ突進する主體は、等しくこなたへ突進する實在的他者に行き當る。生はここでは直接に單純に自己主張である。しかもかくの如き盲目的自己主張は事志と違つて却つて自己の崩壞にをはらぬを得ぬであらう。時間性の惱みは、すでにしばしば説いた如く、實にここに淵源する。文化的生において直接に他者として交るは客體であり、客體はそれ自らにおいて實在的中心を有せぬ觀念的存在者として主體にとつては可能的自己の位置に立つ故、その限りにおいては他者の壓迫侵害は解除され、その限りにおいては時間性の惱みは緩和を見るに相違ないが、しかもここでも他者の完全なる消滅は主體にとつては同じく自己の消滅を意味する故、主體の自己實現を可能ならしめるものはここでもむしろ同時に妨碍者なのである。このことは自然的生においてと同じであり、そこに根源を求むべきである。それ故他者との交りが何等かの變革を見、主體が他者の壓迫侵害より解放されるのでなければ、時間性の克服は望み難いであらう。
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(一) 〔Mendelssohn: Pha:don. Drittes Gespra:ch. ―― Kant: Kritik der praktischen Vernunft. Ak−ausg. S. 122 ff. ―― Lessing: Erziehung des Menschengeschlechts. ―― Lotze: Mikrokosmus.3[#「3」は上付き小文字] Bd. III. S. 74 ff.〕 これらの思想家達は興味ある共通點と相違點とを示す。今後の二者についてみるに、死後の生が現在の生と聯關を有し從つて死者と生者とが共通の生を生きることを説き、主體がそれの目的の完成を自ら體驗すべきであるといふ要請にその思想を基づけた點は、兩者一致するが、レッシングが輪※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]の思想の復活を計つたのに反して、ロッツェはこの世とかの世との聯關だけで滿足してゐる。ともに或る意味において原始人の思想に復歸した點も興味ある事實である。
(二) Kritik der praktischen Vernunft. S. 109 f.
(三) この點に關しては「宗教哲學」二〇節一一一頁以下參看。――Kant: Grundlegung zur Metaphysik 
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