著メも過去も姿を消すであらう。これは活動の靜止に歸したる状態に外ならず、かくてここに時間性は完全に克服し盡されるであらう。しかしながらかくの如き事態は決して現實とはなり得ないのである。文化的生の成立は他者性の存在を制約とする。しかも他者性の存在する限り、それより發する妨碍や壓迫は跡を絶たぬであらう。このことは自然的生においては現在の過去へ無への絶え間なき沒入を意味した。かくの如き基礎の上に築かれればこそ文化的時間も流動を示すのである。そこでは現在は過去及び將來を内部的契機として包容し、從つて主體性の基本的性格としての活動は、現在において又現在を通じての過去と將來との聯關として成立つが、しかもこの聯關は中心の移動する過程として絶えず繰返へされねばならぬ。この繰返へしが文化的主體によつて體驗されるばかりでなく、客觀的實在世界の形相乃至秩序として固定されたものが客觀的時間である。それは移動する現在の等質的連續を本質とする。この連續は終極する所なく、從つて無終極性は客觀的時間の本質的性格をなす。さて目的論的論證はいかなる現在も絶えず移動しいかなる活動もいつも不完成にをはるを知らぬものではない。さればこそそれは個々の現在個々の活動の缺陷を、それらの極みなき連續によつて填補しようとし又しかなし得ると信ずるのである。すなはち無終極性はここでは時間性の克服者の資格において、主體性の最も本質的性格である自己主張自己實現に、それの重要なる一契機をなしつつ、協力する。眞に又完く生きるとはここでは極みなく生きるを意味するのである。
 しかしながら無終極性は決して時間性の克服ではなく、却つてむしろ時間性そのものの本質より來る缺陷の延長擴大に過ぎぬことは、すでにしばしばあらゆる觀點より論じ盡された所である。無終極性の意味における不死や永遠的生は生の完成どころか却つて未完成の連續不完成の徹底化なのである。假りに完成が可能とすれば存在の極みなき繼續はむしろ無用となるであらう。生そのもの活動そのものの本質に、完成を許さぬ何ものかが蟠まつてをればこそ、無終極の延長が必要となるのである。その本質的缺陷はいづこより來るか。他者との關係より來る。さて生きるとはいつも他者と生きることである。しかしてあらゆる生の基ゐでありあらゆる時間性の源である自然的生においては他者との交りは直接性において行はれる。前後左右を
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