I極性を推論する。完成は或は完全性(Vollkommenheit)或は最高善(〔Das ho:chste Gut〕)或は幸福などとして表象される。これらはそれぞれの特異性を有し、例へばカントの道徳の無制約的價値に基づく最高善の思想と、殆ど時を同くして啓蒙時代を風靡した幸福乃至完全性の思想との間には少からぬ隔りは存するが、根本の點においてはそれらはすべて一致する。活動の種類もここでは問題をなさぬ。觀想もここでは活動としての性格においてのみ考慮に入れられる。當爲 Sollen を内容とする活動もここでは主體の自己主張であり、從つて主體の事實上の性格をなす意志作用に外ならぬ。カントの思想はここに興味深き事態を示してゐる。かれが文化的主體――「理性」――の終極目的と考へた「最高善」は、一方道徳律をそれの制約として内に包含する點よりして最高の Sollen でありながら、他方また實踐的理性の全體的對象としてむしろ Wollen に屬せねばならぬ(二)。カントは最高善の基礎をなす自由の觀念については Sollen と Wollen との同一性をそれと言明さへしてゐる(三)。すなはち感性――吾々の用語をもつてすれば、自然的主體――に對しては Sollen であるものも理性――文化的主體――にとつては Wollen であると。要するに種類如何を問はず活動が文化的主體の自己實現といふ性格を擔ふ以上、それは主體そのもの、自己の存在の貫徹へと邁進する根源的生そのものの發現として、自己の完成へと努力するは當然である。しかるにこの努力が成功を見るか否かは、主體そのものにではなく、むしろそれと他者との關係に依屬するのである。他者は可能者として質料として主體の活動及び自己實現を可能ならしめるが、又同時にそれに妨碍を與へる。自然的生においては勿論さうであつたやうに、文化的生においても他者性は消滅することなき必然的契機である。目的論的信念はこの事態をさまざまの形及び程度において考慮に入れつつ、しかも活動の完成主體の終極目的の達成がそれの無終極的存在の制約の下に行はれ得るを主張するものである。この主張ははたして正しいであらうか。
 自然的生においての如く文化的生においても他者性は時の流動の源である。若し他者性が完全に自己性によつて同化され完全に自己實現の從順なる具と化し得たならば、純粹なる現在のみ殘り
前へ 次へ
全140ページ中60ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
波多野 精一 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング