狽s Gespra:ch. (Gesammte Schriften. Jubila:umsausg. III, S. 78 ff.)〕
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        二五

 目的論的論證は存在論的論證と異なつて主體と他者との關係より出發する。その際問題となる主體はもとより同樣に文化的主體であるが、存在論的論證がそれを自己性の純粹なる姿において一切を支配する單純なる力として取扱ひ、他者を考慮に入れる場合にも、それを主體の完成されたる純粹なる表現として從つて他者性を自己性に對してはあるとも無きに等しきものと看做す態度を取つたのと異なつて、この論證は他者を眞面目に考慮に入れる。他者は先づ客體であり、更にそれを實在的他者に歸屬せしめることによつて成立つ客觀的實在世界である。簡單にいへば、主體はここでは世界内存在において考察される。かくの如き觀點よりみられたる主體は他者において自己を實現する働きの中心乃至出發點である。すでに述べた如く活動こそそれの基本的性格である。文化的生をこの性格において把握するを特徴とする近世哲學において、特にこの論證乃至それの原動力をなす信念が顯著なる進出を遂げたのは謂はれあることである。明かにそれと言ひ表はされたる思想乃至論證の形においては吾々はそれを啓蒙時代の思想家達、カント、レッシング、ロッツェ等において見るが、氣分乃至感情としてあこがれ乃至信念としてはそれは文藝復興期以來到る處に躍動してゐる(一)。後の世に語り繼ぐべき朽ちぬ名を立てるといふが如き最も通俗的なる汎人類的なる信念よりして、カントの「理性」フィヒテの「自我」ヘーゲルの「精神」などの諸思想に至るまで、文化的主體の價値と優越性と威力とが感ぜられ認められ信ぜられる處には、目的論的論證は、胚芽としてなりとも、すでに存するといふべきである。
 かかる思想の多種多樣の諸形態を歴史の觀點よりして殊に類型論的に取扱ふは興味深き事柄ではあるが、もとより吾々の任務より遠ざかる。吾々の任務はここではそれらの根柢にあつてそれらをして不死性乃至無終極的存在の觀念への方向を取らしめる基本的思想を、生の根源的性格よりして理解し批判するに存せねばならぬ。さて、目的論的論證は文化的主體の基本的性格である自己實現及び活動より出發し、それの完成、即ち主體の終極目的の實現、のために必要なる制約として生の無
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