рr Sitten. S. 449; S. 455.
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        二六

 かくの如き變革は他者も主體も根本的に新たなる性格を發揮することによつて齎される。しかるに自然的生が飽くまでも主體の基本的性格をなす現實的世俗的生においては、主體そのものが自發的に他者との關係を根本的に刷新することはあり得ぬ故、事の正否は一に他者に懸かつてゐる。後に詳しく論ずる如く、生が文化より更に宗教の段階に昇り、他者がそれの隱れたる深みを自ら啓示することによつて主體も根柢より革まり、かくて他者との交りは人格的生として新たなる性格を發揮するに至つて、そこにはじめて時間性は嚴密に眞實に克服され永遠性は實現されるであらう。尤も文化的生の段階においても他者の特質が考慮に入れられることによつてすでにその方向への努力ははじめられてゐる。それは結局は不成功にをはるにせよ、永遠性への向上の眞摯なる又生の本質より來る必然的なる努力として吾々の立入つた考慮を要求するであらう。
 第一の努力はすでに今現に檢討の對象をなす靈魂不死性即ち無終極性の意味における(僞りの)永遠性の立場において行はれる。すなはちそこでは一歩を進めて他者、この場合客觀的實在世界がそれの他者性にも拘らず主體の自己實現に協力し、活動を妨碍せずむしろ促進すると看做される。現實的性格においては實在的他者は必ずしも主體に協力はせぬ故、或る種類或る程度の超越が要求される。かくて現實的主體と直接的交渉に立つ實在者以上の純粹眞實なる高次の實在者が定立される。これは經驗的科學と區別されたる形而上學の立場である(一)。形而上學の構造は決して一樣ではない。最も著しき類型を擧げれば、超越性の際立つて鮮かなるものと然らざるものとがある。第一は自然的生及び自然的實在性よりの離脱を確保するを力めつつ、純粹客體即ち純粹の觀念的存在へと昇り、これをそのままに實在化することによつて高次の實在世界に達しようとする(二)。客觀的實在世界即ち(廣義の)自然よりの離脱は維持される故、自己認識がそれへの本格的の通路を示すであらう。これが嚴密の意味の形而上學即ち觀念論的形而上學である。これとは異なつて第二の型は客觀的實在世界の認識の取つた道をひたすらそのままに前へ進まうとする。すなはち、客體の世界よりする自然的生及び自然的實在性への復歸はそのままに承認
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