であった。もっとも、慣れてしまえばなんでもないのだろうけれども、しかしそう容易に慣れられるものではなかったし、私の場合になってみると、今までそんなに悪いとも思わなかつた眼が不意に充血し、今や盲目の世界に向かって一歩足を踏み入れたのだという感じ、その感じがあるものだから余計暗い気持にならされたのである。
 私は終日いらいらした気持で暮らした。何か眼のさきに払っても払っても無くならない黒い幕のようなものが垂れ下がって、絶えず眼界を邪魔しているような感じがしてならないのだ。すると暑くもないのに体中にじりじり汗が出て頭に血が上り、腹が立って来て一日に十度も十一度も眼帯をむしり取る。むしり取るたびに強い光線がはいり、瞼の下が痛むので、いけない、と自分を叱ってまた掛けるのだった。あたりがなんとなく暗がっているように感じられて、明るい真昼間でありながら、なんとなく夜のような気がする。今はたしかに明るい昼だ、しかし、はたしてほんとにこれが昼だろうか、これが光のある昼だろうか、これは夜ではないだろうか、これがほんとに昼だとしたら、夜というものはどこにあるのだろう、昼と夜とを区別して考える人間の習慣ははたして真実のものだろうか、夜というものは、この明るい何でも見える昼の底に沈んで同時にあるのではあるまいか……そんなことを考えたりするのだった。
 が、何よりも困ったのは見当の外れることだった。例えば湯呑にお茶をついだりする場合きっと畳にこぼした。自分ではちゃんと見当をつけてついでいる気でいながら、実は外れていて湯呑の外へ流しているのである。家の中にいると憂鬱でたまらないので、私は一日中、方々を歩きまわったが、どうにも足の調子がうまくとれないのである。低いと思った所が意外に高かったり、向こうの方にあるはずであるのがすぐ側にあったりして、ともすればつまずいてよろけるのだ。
 文字を書いてもやはりそうだった。その時ちょうどこの病院を退院して働いている友だちから手紙が来たので、その返事を書こうとかかったが、どうしても行をまっすぐに書くことができなかった。私はつくづく情けなくなった。ただ片眼を失うだけでもこんなに生活が狂って来るものなのかと。もしこれが両眼とも見えなくなったらどんなであろう、その上指が落ち、あるいは曲がり、感覚を失ったりしたら、それでもやっぱり生きて行けるだろうか。私はこの広い武蔵野の中に住んでいながら、まるきり穴のない、暗い、小さな、井戸の底にでもいるような気がした。生きているということ、そのことすらも憎みたくなった。憎み切り[#「憎み切り」に傍点]たいとさえ思った。
 だが、と私は自省する。憎みきりたいと思うことは今日だけか、今度が初めてかと。病気になって以来幾度となく考えたことではなかったか、いや、発病以来三ヶ年の間、一日として死を考えなかったことがあるか、絶え間なく考え、考えるたびにお前は生への愛情だけを見て来たのではなかったか、そして生命そのものの絶対のありがたさを、お前は知ったのではなかったか、お前は知っているはずだ、死ねば生きてはいないということを! このことを心底から理解しているはずだ。死ねばもはや人間ではないのだ、この意味がお前には判らんのか。人間とは、すなわち生きているということなのだ、お前は人間に対して愛情を感じているではないか。自分自身が人間であるということ、このことをお前は何よりも尊敬し、愛し、喜びとすることができるではないか――夜になって、床にはいるたびに私はこういうことを自問自答するのであった。
 私は心臓が弱いのでちょっと昂奮するとすぐ脈搏が速くなりそれが頭に上って眠れない。こういう自問自答をしている時は定まってどきどきと動悸《どうき》がうつ。睡眠不足は悪影響を及ぼして、翌日になると余計充血が激しかったりするのだった。

 私は一日に三回、二十分ないし三十分くらいずつの長さで眼を罨法した。医局から貰って来た硼酸水を小さな罨法鍋に移し、火をかけてぬるま湯にすると、それをガーゼに浸して眼球の上に載《の》せて置くのである。仰向《あおむ》けに寝転んで、私はじっとしている。ほのかな温《ぬく》もりが瞼の上からしみ入って来て、溜まった悪血が徐々に流れ去って行くような心地良さである。その心地良さの中にはいい様のない侘《わび》しさが潜んでいる。癩になって、こうした病院へはいり、この若さのままいっさいを、投げ捨てて生きて行かねばならない、そうした自分の運命感が、その心地良さの底深く流れているためである。
 私はふとこういうことを思い出した。それは私が入院してからまだ二、三ヶ月にしかならないころだった。もう夕方近く、私は同室の者に連れられて初めて女舎へ遊びに行ったのである。それは女の不自由舎であったが、その舎はかなり古い家だったので
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