眼帯記
北條民雄

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)夜|更《ふか》ししてしまったのだ

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)夜|更《ふか》ししてしまったのだ

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   (数字は、底本のページと行数)
(例)そろそろいかれ[#「いかれ」に傍点]始めたかな
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 ある朝、眼をさましてみると、何が重たいものが眼玉の上に載せられているような感じがして、球を左右に動かせると、瞼の中でひどい鈍痛がする。私は思いあたることがあったので、はっとして眼を開いてみたが、ものの十秒と開いていることができなかった。曇った朝、まだ早くだったので、光線は柔らかみをもっているはずだったのに、私の眼は鋭い刃物を突きさされたような痛みを覚えるのだ。眼をつぶったまま、充血だな、と思いながら床の中で二十分ほどもじっとしていた。部屋の者はみな起き上がっていたが、私は不安がいっぱい拡がって来るので起きる気がしなかったのである。
 昨夜の読書がたたったのに違いない、と私は考えた。昨夜、私は十二時が過ぎるまで読み続けたのである。もっとも、これが健康な時だったら、十二時が一時になっても別段なんでもないのだが、私らの眼はそういう訳には行かない。病気が出てから三年くらいたつと、誰でもかなり視力は弱るし、それに無理に眼を使うと悪い結果はてきめんに表われるのである。癩者が何か書いたり、本を読んだりするのは、それだけでもかなりもう無理なことであるのに、私は昨夜はローソクの火で読んだりしたのである。それは消燈が十時と定められているためで、何もそんなにまでして読まねばならないということはなかったのであるが、それが小説で、面白かったものだからつい夜|更《ふか》ししてしまったのだ。
 起き上がると、私はまず急いで鏡を取り出して調べてみた。痛むのを我慢して、眼球を左右にぐりぐりと動かせてみたり、瞼をひっくり返してみたりして真っ赤になっているのを確かめると、今押し込んだばかりの布団をまた押入れから引き出して横になった。左はそれほどでもなかったが、右眼は兎のようになっていたのだ。私はまだ子供のころにはずいぶん眼を患らって祖父母を悩ませたものであるが、大きくなってからは一度も医者にかかったことがなかった。洗眼一つしたことがなかったので、不安はよけい激しかった。
 それに私を不安にするのは、こうした充血が確実に病気の進行を意味しており、一度充血した眼は、もう絶対に恢復《かいふく》することがないからである。もちろん充血はすぐ除れるが、しかし一度充血するとそれだけ視力が衰えているのである。そして、こういうことが重なり重なって、一段一段と悪くなり、やがて神経痛が始まったり、眼の前に払っても払っても除れない黒いぶつぶつが飛び始める。塵埃のようなそのぶつぶつは次第に数を増し、大きくなり、細胞が成長するように密著し合ってついに盲目が来るのである。これは結節癩患者が、最も順調に病勢の進行した場合であるが、その他にも強烈な神経痛で一夜のうちに見えなくなったり、見えなくなってはまた見え、また見えなくなっては見えしているうちについに失明してしまったり、それは色々の場合がある。とにかく充血は盲目に至る最初の段階なのである。
 癩でもまだ軽症なうちは、自分が盲目になるなどなかなか信ぜられるものではない。盲人を眼の前に見ている時は、ああ自分もそうなるのかなあ、と歎息するが、盲人がいない所ではたいてい忘れているし、芯から俺は盲目になると実感をもって思うことなどできないのである。
 私もやっぱりそうで、たとえ盲目になることに間違いはないとしても、そう易々《やすやす》とはならないに違いない、おそらくは何年か先のことであろう、それまでに死ねるかもしれない、などと思って、身近なこととして感ずることができなかった。ところがこの充血である。私は否応なく、自分が盲目に向かって一歩足を進めたことを思わねばならなかった。床の中で、私はもうこのまま見えなくなってしまうのではあるまいかと思ったりした。すると五分と眼を閉じたままでいることができなかった。幾度も、そっと開けてみてはまたつぶった。
 九時になると、私は右の眼を押えて、不用意に開くようなことがあっても光線のはいらぬようにして、医局へ出かけた。
 眼科の待合室にはいってみると、すでにもう二十人あまりもの人が待っている。私は片方の眼で、それらの一人びとりを注意深く眺めた。誰も彼もみな盲目の一歩手前を彷徨《ほうこう》している人々ばかりである。みんなうつむき込んで腰をかけ、眼を閉じ、光線を恐れるように見えた。誰かに話しかけられて貌《かお》をあげる時でも決して充分眼を開くということはなかった。
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