た。すると、病院で貰った帯で死ぬことがひどく情けなくなってき出した。しかし帯のことなどどうでも良いではないかと思いかえして、二、三度試みに引っ張ってみると、ぽってりと青葉を着けた枝がゆさゆさと涼しい音をたてた。まだ本気に死ぬ気ではなかったが、とにかく端を結わえてまず首を引っかけてみると、ちょうど具合良くしっくりと頸にかかって、今度は顎を動かせて枝を揺ってみた。枝がかなり太かったので顎ではなかなか揺れず、痛かった。もちろんこれでは低すぎるのであるが、それならどれくらいの高さが良かろうかと考えた。縊死体《いしたい》というのはたいてい一尺くらいも頸が長くなっているものだともう幾度も聞かされたことがあったので、嘘かほんとか解らなかったが、もう一つ上の枝に帯を掛ければ申し分はあるまいと考えた。しかし一尺も頸が長々と伸びてぶら下がっている自分の死状はずいぶん怪しげなものに違いないと思いだすと、浅ましいような気もして来た。どうせここは病院だから、そのうちに手ごろな薬品でもこっそり手に入れてそれからにした方がよほどよいような気がして来た。しかし、と首を掛けたまま、いつでもこういうつまらぬようなことを考え出しては、それに邪魔されて死ねなかったのだと思い、そのつまらぬことこそ自分をここまでずるずると引きずって来た正体なのだと気付いた。それでは――と帯に頸を載せたまま考え込んだ。
その時かさかさと落ち葉を踏んで歩く人の足音が聞こえて来た。これはいけないと頸を引っ込めようとしたとたんに、穿《は》いていた下駄がひっくり返ってしまった。
「しまった」
さすがに仰天して小さく叫んだ。ぐぐッと帯が頸部に食い込んで来た。呼吸もできない。頭に血が上ってガーンと鳴り出した。
死ぬ、死ぬ。
無我夢中で足を藻掻《もが》いた。と、こつり下駄が足先に触れた。
「ああびっくりした」
ようやくゆるんだ帯から首をはずしてほっとしたが、腋《わき》の下や背筋には冷たい汗が出てどきんどきんと心臓が激しかった。いくら不覚のこととはいえ、自殺しようとしている者が、これくらいのことにどうしてびっくりするのだ、この絶好の機会に、と口惜しがりながら、しかしもう一度首を引っ掛けてみる気持は起こって来なかった。
再び垣を乗り越すと、彼は黙々と病棟へ向かって歩き出した。――心と肉体がどうしてこうも分裂するのだろう。だが、俺は、いったい何を考えていたのだろう。俺には心が二つあるのだろうか、俺の気付かないもう一つの心とはいったい何ものだ。二つの心は常に相反するものなのか、ああ、俺はもう永遠に死ねないのではあるまいか、何万年でも、俺は生きていなければならないのか、死というものは、俺には与えられていないのか、俺は、もうどうしたら良いんだ。
だが病棟の間近くまで来ると、悪夢のような室内の光景が蘇って自然と足が停ってしまった。激しい嫌悪が突き上がって来て、どうしても足を動かす気がしないのだった。仕方なく踵《きびす》を返して歩き出したが、再び林の中へはいって行く気にはなれなかった。それでは昼間垣の外から見た果樹園の方へでも行ってみようと二、三歩足を動かせ始めたが、それもまたすぐいやになってしまった。やっぱり病室へ帰る方がいちばん良いように思われて来て、再び踵を返したのだったが、するともうむんむんと膿の臭いが鼻を圧して来て、そこへ立ち停るより仕方がなかった。さてどこへ行ったら良いものかと途方にくれ、とにかくどこかへ行かねばならぬのだが、と心が焦立って来た。あたりは暗く、すぐ近くの病棟の長い廊下の硝子戸が明るく浮き出ているのが見えた。彼はぼんやり佇立したまま森《しん》としたその明るさを眺めていたが、その明るさが妙に白々しく見え出して、だんだん背すじ[#「すじ」に傍点]に水を注がれるような凄味を覚え始めた。これはどうしたことだろうと思って大きく眼を瞠《みは》って見たが、ぞくぞくと鬼気は迫って来るいっぽうだった。体が小刻みに顫え出して、全身が凍りついてしまうような寒気がしてき出した。じっとしていられなくなって急いでまた踵を返したが、はたと当惑してしまった。全体俺はどこへ行くつもりなんだ。どこへ行ったら良いんだ、林や果樹園や菜園が俺の行き場でないことだけは明瞭に判っている、そして必然どこかへ行かねばならぬ、それもまた明瞭に判っているのだ。それだのに、
「俺は、どこへ、行きたいんだ」
ただ、漠然とした焦慮に心が煎るるばかりであった。――行き場がないどこへも行き場がない。曠野に迷った旅人のように、孤独と不安が犇々《ひしひし》と全身をつつんで来た。熱いものの塊《かたまり》がこみ上げて来て、ひくひくと胸が嗚咽し出したが、不思議に一滴の涙も出ないのだった。
「尾田さん」
不意に呼ぶ佐柄木の声に尾田はどきんと一つ大きな鼓動が打って、ふらふらッと眩暈《めまい》がした。危うく転びそうになる体を、やっと支えたが、咽喉が枯れてしまったように声が出なかった。
「どうしたんですか」
笑っているらしい声で佐柄木は言いながら近寄って来ると、
「どうかしたのですか」
と訊いた。その声で尾田はようやく平常な気持を取り戻し、
「いえちょっとめまい[#「めまい」に傍点]がしまして」
しかし自分でもびっくりするほど、ひっつるように乾いた声だった。
「そうですか」
佐柄木は言葉を切り、何か考える様子だったが、
「とにかく、もう遅いですから、病室へ帰りましょう」
と言って歩きだした。佐柄木のしっかりした足どりに尾田も、何となく安心して従った。
駱駝《らくだ》の背中のように凹凸のひどい寝台で、その上に布団を敷いて患者たちは眠るのだった。尾田が与えられた寝台の端に腰をかけると、佐柄木も黙って尾田の横に腰を下ろした。病人たちはみな寝静まって、ときどき廊下を便所へ歩む人の足音が大きかった。ずらりと並んだ寝台に眠っている病人たちの状《さま》ざまな姿体を、尾田は眺める気力がなく、下を向いたまま、一時も早く布団の中にもぐり込んでしまいたい思いでいっぱいだった。どれもこれも癩《くず》れかかった人々ばかりで人間というよりは呼吸のある泥人形であった。頭や腕に巻いている繃帯も、電光のためか、黒黄色く膿汁がしみ出ているように見えた。佐柄木はあたりを一わたり見廻していたが、
「尾田さん、あなたはこの病人たちを見て、何か不思議な気がしませんか」
と訊くのであった。
「不思議って?」
と尾田は佐柄木の貌を見上げたが、瞬間、あっと叫ぶところであった。佐柄木の美しい方の眼がいつの間にか抜け去っていて、骸骨のようにそこがぺこんと凹んでいるのだった。あまり不意だったので言葉もなく尾田が混乱していると、
「つまりこの人たちも、そして僕自身をも含めて、生きているのです。このことを、あなたは不思議に思いませんか。奇怪な気がしませんか」
急に片目になった佐柄木の貌は、何か勝手の異なった感じがし、尾田は、錯覚しているのではないかと自分を疑いつつ、恐々《こわごわ》であったが注意して佐柄木を見た。佐柄木は尾田の驚きを察したらしく、つと立ち上がって当直寝台――部屋の中央にあって当直の附添いが寝る寝台――へすたすたと歩いて行ったが、すぐ帰って来て、
「はははは。目玉を入れるのを忘れていました。驚いたですか。さっき洗ったものですから――」
そう言って尾田に掌手《てのひら》に載せた義眼を示した。
「面倒ですよ。目玉の洗濯までせねばならんのでね」
そして佐柄木はまた笑うのであったが、尾田は溜まった唾液《つば》を呑み込むばかりだった。義眼は二枚貝の片方と同じ恰好《かっこう》で、丸まった表面に眼の模様がはいっていた。
「この目玉はこれで三代目なんですよ。初代のやつも二代目も、大きな嚏《くさめ》をした時飛び出しましてね、運悪く石の上だったものですから割れちゃいました」
そんなことを言いながらそれを眼窩《がんか》へあててもぐもぐとしていたが、
「どうです、生きてるようでしょう」
と言った時には、もうちゃんと元の位置に納まっていた。尾田は物凄い手品でも見ているような塩梅《あんばい》であっけに取られつつ、もう一度唾液を呑み込んで返事もできなかった。
「尾田さん」
ちょっとの間黙っていたが、今度は何か鋭いものを含めた調子で呼びかけ、
「こうなっても、まだ生きているのですからね、自分ながら、不思議な気がしますよ」
言い終わると急に調子をゆるめて微笑していたが、
「僕、失礼ですけれど、すっかり見ましたよ」
と言った。
「ええ?」
瞬間|解《げ》せぬという風に尾田が反問すると、
「さっきね。林の中でね」
相変わらず微笑して言うのであるが、尾田は、こいつ油断のならぬやつだと思った。
「じゃあすっかり?」
「ええ、すっかり拝見しました。やっぱり死にきれないらしいですね。ははは」
「………」
「十時が過ぎてもあなたの姿が見えないのでひょっとすると――と思いましたので出かけてみたのです。初めてこの病室へはいった人はたいていそういう気持になりますからね。もう幾人もそういう人にぶつかって来ましたが、まず大部分の人が失敗しますね。そのうちインテリ青年、と言いますか、そういう人は定まってやり損いますね。どういう訳かその説明は何とでもつきましょうが――。すると、林の中にあなたの姿が見えるのでしょう。もちろん大変暗くて良く見えませんでしたが。やっばりそうかと思って見ていますと、垣を越え出しましたね。さては院外《そと》でやりたいのだなと思ったのですが、やはり止《と》める気がしませんのでじっと見ていました。もっとも他人がとめなければ死んでしまうような人は結局死んだ方がいちばん良いし、それに再び起ち上がるものを内部に蓄えているような人は、定まって失敗しますね。蓄えているものに邪魔されて死にきれないらしいのですね。僕思うんですが、意志の大いさは絶望の大いさに正比する、とね。意志のないものに絶望などあろうはずがないじゃありませんか。生きる意志こそ絶望の源泉だと常に思っているのです。しかし下駄がひっくり返ったのですか、あの時はちょっとびっくりしましたよ。あなたはどんな気持がしたですか」
尾田は真面目なのか笑いごとなのか判断がつきかねたが、その太ぶとしい言葉を聞いているうちに、だんだん激しい忿怒《ふんぬ》が湧き出て来て、
「うまく死ねるぞ、と思って安心しました」
と反撥してみたが、
「同時に心臓がどきどきしました」
と正直に白状してしまった。
「ふうむ」
と佐柄木は考え込んだ。
「尾田さん。死ねると安心する心と、心臓がどきどきするというこの矛盾の中間、ギャップの底に、何か意外なものが潜んでいるとは思いませんか」
「まだ一度も探ってみません」
「そうですか」
そこで話を打ち切りにしようと思ったらしく佐柄木は立ち上がったが、また腰を下ろし、
「あなたと初めてお会いした今日、こんなこと言って大変失礼ですけれど」
と優しみを含めた声で前置きをすると、
「尾田さん、僕には、あなたの気持が良く解る気がします。昼間お話しましたが、僕がここへ来たのは五年前です。五年以前のその時の僕の気持を、いや、それ以上の苦悩を、あなたは今味わっていられるのです。ほんとにあなたの気持、良く、解ります。でも、尾田さんきっと生きられますよ。きっと生きる道はありますよ。どこまで行っても人生にはきっと抜け道があると思うのです。もっともっと自己に対して、自らの生命に対して謙虚になりましょう」
意外なことを言い出したので尾田はびっくりして佐柄木の顔を見上げた。半分潰れかかって、それがまたかたまったような佐柄木の顔は、話に力を入れるとひっつったように痙攣《けいれん》して、仄《ほの》暗い電光を受けていっそう凹凸がひどく見えた。佐柄木はしばらく何ごとか深く考え耽っていたが、
「とにかく、癩病に成りきることが何より大切だと思います」
と言った。不敵な面魂が、その短い言葉に覗かれた。
「まだ入院
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