の枝を折ったように無愛想な答え方で、男はいっそう歩調を早めて歩くのだった。尾田は取りつく島を失った想いであったが、葉と葉の間に見えがくれする垣根を見ると、
 「全治する人もあるのでしょうか」
と知らず識らずの中に哀願的にすらなって来るのを、腹立たしく思いながら、やはり訊《き》かねばおれなかった。
 「まあ一生懸命に治療してごらんなさい」
 男はそう言ってにやりと笑うだけだった。あるいは好意を示した微笑であったかもしれなかったが、尾田には無気味なものに思われた。
 二人が着いた所は、大きな病棟の裏側にある風呂場で、すでに若い看護婦が二人で尾田の来るのを待っていた。耳まで被さってしまうような大きなマスクを彼女らはかけていて、それを見ると同時に尾田は、思わず自分の病気を振り返って情けなさが突き上がって来た。
 風呂場は病棟と廊下続きで、獣を思わせる嗄《しわが》れ声やどすどすと歩く足音などが入り乱れて聞こえてきた。尾田がそこへトランクを置くと、彼女らはちらりと尾田の貌を見たが、すぐ視線を外《そ》らして、
 「消毒しますから……」
とマスクの中で言った。一人が浴槽の蓋《ふた》を取って片手を浸しながら、
 「良いお湯ですわ」
 はいれと言うのであろう、そう言ってちらと尾田の方を見た。尾田はあたりを見廻したが、脱衣籠もなく、ただ、片隅に薄汚ない蓙《ござ》が一枚敷かれてあるきりで、
 「この上に脱げと言うのですか」
と思わず口まで出かかるのをようやく押えたが、激しく胸が波立って来た。もはやどん底に一歩を踏み込んでいる自分の姿を、尾田は明瞭に心に描いたのであった。この汚れた蓙の上で、全身|虱《しらみ》だらけの乞食《こじき》や、浮浪患者が幾人も着物を脱いだのであろうと考え出すと、この看護婦たちの眼にも、もう自分はそれらの行路病者と同一の姿で映っているに違いないと思われて来て、怒りと悲しみが一度に頭に上るのを感じた。逡巡《しゅんじゅん》したが、しかしもうどうしようもない、半ば自棄《やけ》気味で覚悟を定めると、彼は裸になり、湯ぶねの蓋を取った。
 「何か薬品でもはいっているのですか」
 片手を湯の中に入れながら、さっきの消毒という言葉がひどく気がかりだったので訊いてみた。
 「いいえ、ただのお湯ですわ」
 良く響く、明るい声であったが、彼女らの眼は、さすがに気の毒そうに尾田を見ていた。尾田はしゃがん[#「しゃがん」に傍点]でまず手桶に一杯を汲んだが、薄白く濁った湯を見るとまた嫌悪が突き出て来そうなので、彼は眼を閉じ、息をつめて一気にどぼんと飛び込んだ。底の見えない洞穴へでも墜落する思いであった。すると、
 「あのう、消毒室へ送る用意をさせて戴きますから――」
と看護婦の一人が言うと、他の一人はもうトランクを開いて調べ出した。どうとも自由にしてくれ、裸になった尾田は、そう思うよりほかになかった。胸まで来る深い湯の中で彼は眼を閉じ、ひそひそと何か話し合いながらトランクを掻《か》き廻している彼女らの声を聞いているだけだった。絶え間なく病棟から流れて来る雑音が、彼女らの声と入り乱れて、団塊になると、頭の上をくるくる廻った。その時ふと彼は故郷の蜜柑《みかん》の木を思い出した。笠のように枝を厚ぼったく繁らせたその下でよく昼寝をしたことがあったが、その時の印象が、今こうして眼を閉じて物音を聞いている気持と一脈通ずるものがあるのかもしれなかった。また変な時に思い出したものだと思っていると、
 「おあがりになったら、これ、着てください」
と看護婦が言って新しい着物を示した。垣根の外から見た女が着ていたのと同じ棒縞の着物であった。
 小学生にでも着せるような袖の軽い着物を、風呂からあがって着け終わった時には、なんという見窄《みすぼ》らしくも滑稽な姿になったものかと尾田は幾度も首を曲げて自分を見た。
 「それではお荷物消毒室へ送りますから――。お金は拾壱円八十六銭ございました。二、三日の中に金券と換えて差し上げます」
 金券、とは初めて聞いた言葉であったが、おそらくはこの病院のみで定められた特殊な金を使わされるのであろうと尾田はすぐ推察したが、初めて尾田の前に露呈した病院の組織の一端を掴《つか》み取ると同時に、監獄へ行く罪人のような戦慄《せんりつ》を覚えた。だんだん身動きもできなくなるのではあるまいかと不安でならなくなり、親爪をもぎ取られた蟹《かに》のようになって行く自分のみじめさを知った。ただ地面をうろうろと這い廻ってばかりいる蟹を彼は思い浮かべて見るのであった。
 その時廊下の向こうでどっと挙《あ》がる喚声が聞こえて来た。思わず肩を竦《すく》めていると、急にばたばたと駈け出す足音が響いて来た。とたんに風呂場の入口の硝子《ガラス》戸が開くと、腐った梨のような貌《かお》がにゅっと出て来た。尾田はあっと小さく叫んで一歩後ずさり、顔からさっと血の引くのを覚えた。奇怪な貌だった。泥のように色艶が全くなく、ちょっとつつけば膿汁が飛び出すかと思われるほどぶくぶくと脹《ふく》らんで、その上に眉毛が一本も生えていないため怪しくも間の抜けたのっぺら棒であった。駈け出したためか昂奮した息をふうふう吐きながら、黄色く爛《ただ》れた眼でじろじろと尾田を見るのであった。尾田はますます肩を窄《すぼ》めたが、初めてまざまざと見る同病者だったので、恐る恐るではあるが好奇心を動かせながら、幾度も横目で眺めた。どす黒く腐敗した瓜に鬘《かつら》を被せるとこんな首になろうか、顎にも眉にも毛らしいものは見当たらないのに、頭髪だけは黒々と厚味をもったのが、毎日油をつけるのか、櫛《くし》目も正しく左右に分けられていた。顔面とあまり不調和なので、これはひょっとすると狂人かもしれぬと尾田が、無気味なものを覚えつつ注意していると、
 「何を騒いでいたの」
と看護婦が訊《き》いた。
 「ふふふふふ」
と彼はただ気色の悪い笑い方をしていたが、不意にじろりと尾田を見ると、いきなりぴしゃりと硝子戸を閉めて駈けだしてしまった。
 やがてその足音が廊下の果てに消えてしまうと、またこちらへ向かって来るらしい足音がこつこつと聞こえ出した。前のに比べてひどく静かな足音であった。
 「佐柄木さんよ」
 その音で解るのであろう。彼女らは貌を見合わせて頷き合う風であった。
 「ちょっと忙しかったので、遅くなりました」
 佐柄木は静かに硝子戸を開けてはいって来ると、まずそう言った。背の高い男で、片方の眼がばかに美しく光っていた。看護手のように白い上衣をつけていたが、一目で患者だと解るほど、病気は顔面を冒していて、眼も片方は濁っており、そのためか美しい方の眼がひどく不調和な感じを尾田に与えた。
 「当直なの?」
 看護婦が彼の貌を見上げながら訊くと、
 「ああ、そう」
と簡単に応えて、
 「お疲れになったでしょう」
と尾田の方を眺めた。貌形《かおかたち》で年齢の判断は困難だったが、その言葉の中には若々しいものが満ちていて、横柄だと思えるほど自信ありげな物の言いぶりであった。
 「どうでした、お湯熱くなかったですか」
 初めて病院の着物を纏《まと》うた尾田のどことなくちぐはぐな様子を微笑して眺めていた。
 「ちょうどよかったわね、尾田さん」
 看護婦がそう引き取って尾田を見た。
 「ええ」
 「病室の方、用意できましたの?」
 「ああ、すっかりできました」
と佐柄木が応えると、看護婦は尾田に、
 「この方佐柄木さん、あなたがはいる病室の附添いさんですの。解らないことあったら、この方にお訊きなさいね」
と言って尾田の荷物をぶら提《さ》げ、
 「では佐柄木さん、よろしくお願いしますわ」
と言い残して出て行ってしまった。
 「僕尾田高雄です、よろしく――」
と挨拶すると、
 「ええ、もう前から存じております。事務所の方から通知がありましたものですから」
 そして、
 「まだ大変お軽いようですね、なあに癩病恐れる必要ありませんよ。ははは、ではこちらへいらしてください」
と廊下の方へ歩き出した。

 木立を透して寮舎や病棟の電燈が見えた。もう十時近い時刻であろう。尾田はさっきから松林の中に佇立《ちょりつ》してそれらの灯《ひ》を眺めていた。悲しいのか不安なのか恐ろしいのか、彼自身でも識別できぬ異常な心の状態だった。佐柄木に連れられて初めてはいった重病室の光景がぐるぐると頭の中を廻転して、鼻の潰れた男や口の歪んだ女や骸骨のように目玉のない男などが眼先にちらついてならなかった。自分もやがてはああ成り果てて行くであろう、膿汁《のうじゅう》の悪臭にすっかり鈍くなった頭でそういうことを考えた。半ば信じられない、信じることの恐ろしい思いであった。――膿《うみ》がしみ込んで黄色くなった繃帯《ほうたい》やガーゼが散らばった中で黙々と重病人の世話をしている佐柄木の姿が浮かんで来ると、尾田は首を振って歩き出した。五年間もこの病院で暮らしたと尾田に語った彼は、いったい何を考えて生き続けているのであろう。
 尾田を病室の寝台に就《つ》かせてからも、佐柄木は急がしく室内を行ったり来たりして立ち働いた。手足の不自由なものには繃帯を巻いてやり便をとってやり、食事の世話すらもしてやるのであった。けれどもその様子を静かに眺めていると、彼がそれらを真剣にやって病人たちをいたわっているのではないと察せられるふしが多かった。それかと言ってつらく[#「つらく」に傍点]当たっているとはもちろん思えないのであるが、何となく傲然《ごうぜん》としているように見受けられた。崩れかかった重病者の股間に首を突っ込んで絆創膏《ばんそうこう》を貼っているような時でも、決していやな貌《かお》を見せない彼は、いやな貌になるのを忘れているらしいのであった。初めて見る尾田の眼に異常な姿として映っても、佐柄木にとっては、おそらくは日常事の小さな波の上下であろう。仕事が暇になると尾田の寝室へ来て話すのであったが、彼は決して尾田を慰めようとはしなかった。病院の制度や患者の日常生活について訊くと、静かな調子で説明した。一語も無駄を言うまいと気を配っているような説明の仕方だったが、そのまま文章に移して良いと思われるほど適切な表現で尾田は一つひとつ納得できた。しかし尾田の過去についても病気の具合についても、何一つとして尋ねなかった。また尾田の方から彼の過去を尋ねてみても、彼は笑うばかりで決して語ろうとはしなかった。それでも尾田が、発病するまで学校にいたことを話してからは、急に好意を深めて来たように見えた。
 「今まで話相手が少なくて困っておりました」
と言った佐柄木の貌には明らかによろこびが見え、青年同志としての親しみが自ずと芽生えたのであった。だがそれと同時に、今こうして癩者佐柄木と親しくなって行く自分を思い浮かべると尾田は、いうべからざる嫌悪を覚えた。これではいけないと思いつつ本能的に嫌悪が突き上がって来てならないのであった。
 佐柄木を思い病室を思い浮かべながら、尾田は暗い松林の中を歩き続けた。どこへ行こうという的《あて》がある訳ではなかった。眼をそ向ける場所すらない病室が耐えられなかったから飛び出して来たのだった。
 林を抜けるとすぐ柊の垣にぶつかってしまった。ほとんど無意識的に垣根に縋《すが》ると、力を入れてゆすぶってみた。金を奪われてしまった今はもう逃走することすら許されていないのだった。しかし彼は注意深く垣を乗り越え始めた。どんなことがあってもこの院内から出なければならない。この院内で死んではならないと強く思われたのだった。外に出るとほっと安心し、あたりをいっそう注意しながら雑木林の中へはいって行くと、そろそろと帯を解いた。俺は自殺するのでは決してない。ただ、今死なねばならぬように決定されてしまったのだ、何者が決定したのかそれは知らぬ、がとにかくそうすべて定まってしまったのだと口走るように呟いて、頭上の栗の枝に帯をかけた。風呂場で貰った病院の帯は、繩のようによれよれとなっていて、じっくりと首が締まりそうであっ
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