田はじっと眺めるのみだった。男はしばらく題目を唱えていたが、やがてそれをやめると、二つ三つその穴で吐息をするらしかったが、ぐったりと全身の力を抜いて、
「ああ、ああ、なんとかして死ねんものかいなあー」
すっかり嗄れた声でこの世の人とは思われず、それだけにまた真に迫る力がこもっていた。男は二十分ほども静かに坐っていたが、また以前のように横になった。
「尾田さん、あなたは、あの人たちを人間だと思いますか」
佐柄木は静かに、だがひどく重大なものを含めた声で言った。尾田は佐柄木の意が解しかねて、黙って考えた。
「ね尾田さん。あの人たちは、もう人間じゃあないんですよ」
尾田はますます佐柄木の心が解らず彼の貌を眺めると、
「人間じゃありません。尾田さん、決して人間じゃありません」
佐柄木の思想の中核に近づいたためか、幾分の昂奮すらも浮かべて言うのだった。
「人間ではありませんよ。生命です。生命そのもの、いのち[#「いのち」に傍点]そのものなんです。僕の言うこと、解ってくれますか、尾田さん。あの人たちの『人間』はもう死んで亡びてしまったんです。ただ、生命だけがびくびくと生きているのです。なんという根強さでしょう。誰でも癩になった刹那《せつな》に、その人の人間は亡びるのです。死ぬのです。社会的人間として亡びるだけではありません。そんな浅はかな亡び方では決してないのです。廃兵ではなく、廃人なんです。けれど、尾田さん、僕らは不死鳥です。新しい思想、新しい眼を持つ時、全然癩者の生活を獲得する時、再び人間として生き復《かえ》るのです。復活そう復活です。びくびくと生きている生命が肉体を獲得するのです。新しい人間生活はそれから始まるのです。尾田さん、あなたは今死んでいるのです。死んでいますとも、あなたは人間じゃあないんです。あなたの苦悩や絶望、それがどこから来るか、考えてみてください。一たび死んだ過去の人間を捜し求めているからではないでしょうか」
だんだん激して来る佐柄木の言葉を、尾田は熱心に訊くのだったが、潰れかかった彼の貌が大きく眼に映って来ると、この男は狂っているのではないかと、言葉の強さに圧されながらも怪しむのだった。尾田に向かって説きつめているようでありながら、その実佐柄木自身が自分の心内に突き出して来る何ものかと激しく戦って血みどろとなっているように尾田には見え、それが我を忘れて聞こうとする尾田の心を乱しているように思われるのだった。とはたして佐柄木は急に弱々しく、
「僕に、もう少し文学的な才能があったら、と歯ぎしりするのですよ」
その声には、今まで見て来た佐柄木とも思われない、意外な苦悩の影がつきまとっていた。
「ね尾田さん、僕に天才があったら、この新しい人間を、今までかつて無かった人間像を築き上げるのですが――及びません」
そう言って枕もとのノォトを尾田に示すのであった。
「小説をお書きなんですか」
「書けないのです」
ノォトをばたんと閉じてまた言った。
「せめて自由な時間と、満足な眼があったらと思うのです。いつ盲目になるかわからない、この苦しさはあなたにはお解りにならないでしょう。御承知のように片方は義眼ですし、片方は近いうちに見えなくなるでしょう、それは自分でもわかりきったことなんです」
さっきまで緊張していたのが急にゆるんだためか、佐柄木の言葉は顛倒しきって、感傷的にすらなっているのだった。尾田は言うべき言葉もすぐには見つからず、佐柄木の眼を見上げて、初めてその眼が赤黒く充血しているのを知った。
「これでも、ここ二、三日は良い方なんです。悪い時にはほとんど見えないくらいです。考えてもみてください。絶え間なく眼の先に黒い粉が飛びまわる焦立たしさをね。あなたは水の中で眼を開いたことがありますか、悪い時の私の眼はその水中で眼を開けた時とほとんど同じなんです。何もかもぼうっと爛《ただ》れて見えるのですよ。良い時でも砂煙の中に坐っているようなものです。物を書いていても、読書していても一度この砂煙が気になり出したら最後ほんとに、気が狂ってしまうようです」
ついさっき佐柄木が、尾田に向かって慰めようがないと言ったが、今は尾田にも慰めようがなかった。
「こんな暗いところでは――」
それでもようやくそう言いかけると、
「もちろん良くありません。それは僕にも解っているのですが、でも当直の夜にでも書かなければ、書く時がないのです。共同生活ですからねえ」
「でも、そんなにお焦《あせ》りにならないで、治療をされてから――」
「焦らないではいられませんよ。良くならないのが解りきっているのですから。毎日毎日波のように上下しながら、それでも潮が満ちて来るように悪くなって行くんです。ほんとに不可抗力なんですよ」
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