名人長二
三遊亭圓朝
鈴木行三校訂・編纂

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)享和《きょうわ》二年

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)書画彫刻|蒔絵《まきえ》などに

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、底本のページと行数)
(例)※[#「「滔」の「さんずい」に代えて「言」」、第4水準2−88−72]

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)へい/\
   かた/″\(濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」)
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 三遊亭圓朝子、曾て名人競と題し画工某及女優某の伝を作り、自ら之を演じて大に世の喝采を博したり。而して爾来病を得て閑地に静養し、亦自ら話術を演ずること能わず。然れども子が斯道に心を潜むるの深き、静養の間更に名人競の内として木匠長二の伝を作り、自ら筆を採りて平易なる言文一致体に著述し、以て門弟子修業の資と為さんとす。今や校合成り、梓に上せんとするに当り、予に其序を需む。予常に以為く、話術は事件と人物とを美術的に口述するものにして、音調の抑揚緩急得て之を筆にすること能わず、蓋し筆以て示すを得るは話の筋のみ、話術其物は口之を演ずるの外亦如何ともすること能わずと。此故に話術家必しも話の筋を作為するものにあらず、作話者必しも話術家にあらざるなり。夫れ然り、然りと雖も話術家にして巧に話の筋を作為し、自ら之を演ぜんか、是れ素より上乗なる者、彼の旧套を脱せざる昔話のみを演ずる者に比すれば同日の論にあらず。而して此の如きは百歳一人を出すを期すべからず。圓朝子は其話術に堪能なると共に、亦話の筋を作為すること拙しとせず。本書名人長二の伝を見るに立案斬新、可笑あり、可悲あり、変化少からずして人の意表に出で、而かも野卑猥褻の事なし。此伝の如きは誠に社会現時の程度に適し、優に娯楽の具と為すに足る。然れども是れ唯話の筋を謂うのみ。其話術に至りては之を演ずる者の伎倆に依りて異ならざるを得ず。門弟子たるもの勉めずんばあるべけんや。若し夫れ圓朝子病癒ゆるの日、親しく此伝を演せば其妙果して如何。長二は木匠の名人なり、圓朝子は話術の名人なり、名人にして名人の伝を演す、其霊妙非凡なるや知るべきのみ。而して聴衆は話の主人公たる長二と、話術の演術者たる圓朝子と、両々相対して亦是れ名人競たるを知らん。
  乙未初秋
[#地から4字上げ]土子笑面識
[#改ページ]

        一

 これは享和《きょうわ》二年に十歳で指物師《さしものし》清兵衛《せいべえ》の弟子となって、文政《ぶんせい》の初め廿八歳の頃より名人の名を得ました、長二郎《ちょうじろう》と申す指物師の伝記でございます。凡《およ》そ当今美術とか称えまする書画彫刻|蒔絵《まきえ》などに上手というは昔から随分沢山ありますが、名人という者はまことに稀《まれ》なものでございます。通常より少し優れた伎倆《うでまえ》の人が一勉強《ひとべんきょう》いたしますと上手にはなれましょうが、名人という所へはたゞ勉強したぐらいでは中々参ることは出来ません。自然の妙というものを自得せねば名人ではございません。此の自然の妙というものは以心伝心とかで、手を以《もっ》て教えることも出来ず、口で云って聞かせることも出来ませんゆえ、親が子に伝えることも成らず、師匠が弟子に譲るわけにもまいりませんから、名人が二代も三代も続くことは滅多にございません。さて此の長二郎と申す指物師は無学文盲の職人ではありますが、仕事にかけては当時無類と誉められ、江戸町々の豪商《ものもち》はいうまでもなく、大名方の贔屓《ひいき》を蒙《こうむ》ったほどの名人で、其の拵《こしら》えました指物も御維新《ごいっしん》前までは諸方に伝わって珍重されて居りましたが、瓦解《がかい》の時二束三文で古道具屋の手に渡って、何《ど》うかなってしまいましたものと見えて、昨今は長二の作というものを頓《とん》と見かけません。世間でも長二という名人のあった事を知っている者が少《すくの》うございますから、残念でもありますし、又先頃弁じました名人|競《くらべ》のうち錦の舞衣《まいぎぬ》にも申述べた通り、何芸によらず昔から名人になるほどの人は凡人でございませぬゆえ、何か面白いお話があろうと存じまして、それからそれへと長二の履歴を探索に取掛りました節、人力車から落されて少々怪我をいたし、打撲《うちみ》で悩みますから、或人の指図で相州《そうしゅう》足柄下郡《あしがらしもごおり》の湯河原《ゆがわら》温泉へ湯治《とうじ》に参り、温泉宿|伊藤周造《いとうしゅうぞう》方に逗留中、図らず長二の身の上にかゝる委《くわ》しい事を聞出しまして、此のお話が出来上ったのでございます。是が真《まこと》に怪我の功名と申すものかと存じます。文政《ぶんせい》の頃江戸の東両国|大徳院《だいとくいん》前に清兵衛と申す指物の名人がござりました。是は京都で指物の名人と呼ばれた利齋《りさい》の一番弟子で、江戸にまいって一時《いちじ》に名を揚げ、箱清《はこせい》といえば誰《たれ》知らぬ者もないほどの名人で、当今にても箱清の指した物は好事《こうず》の人が珍重いたすことで、文政十年の十一月五日に八十三歳で歿しました。墓は深川|亀住町《かめずみちょう》閻魔堂《えんまどう》地中《じちゅう》の不動院に遺《のこ》って、戒名を參清自空信士《さんせいじくうしんし》と申します。この清兵衛が追々年を取り、六十を越して思うように仕事も出来ず、女房が歿《なくな》りましたので、弟子の恒太郎《つねたろう》という器用な柔順《おとな》しい若者を養子にして、娘のお政《まさ》を娶《めあ》わせましたが、恒太の伎倆《うでまえ》はまだ鈍うございますから、念入の仕事やむずかしい注文を受けた時は、皆《みん》な長二にさせます。長二は其の頃両親とも亡《なくな》りましたので、煮焚《にたき》をさせる雇婆《やといばあ》さんを置いて、独身で本所|〆切《しめきり》[#「〆切」に校注、「枕橋の架してある堀の奥のところ」、ただし底本では校注が脱落、底本の親本にて確認]に世帯《しょたい》を持って居りましたが、何ういうものですか弟子を置きませんから、下働きをする者に困り、師匠の末の弟子の兼松《かねまつ》という気軽者を借りて、これを相手に仕事をいたして居りますところが、誰《たれ》いうとなく長二のことを不器用長二と申しますから、何所《どこ》か仕事に下手なところがあるのかと思いますに、左様《そう》ではありません。仕事によっては師匠の清兵衛より優れた所があります。是は長二が他の職人に仕事を指図するに、何《なん》でも不器用に造るが宜《い》い、見かけが器用に出来た物に永持《ながもち》をする物はない、永持をしない物は道具にならないから、表面《うわべ》は不細工《ぶざいく》に見えても、十百年《とッぴゃくねん》の後までも毀《こわ》れないように拵えなけりゃ本当の職人ではない、早く造りあげて早く銭を取りたいと思うような卑しい了簡で拵えた道具は、何処《どこ》にか卑しい細工が出て、立派な座敷の道具にはならない、是は指物ばかりではない、画《え》でも彫物《ほりもの》でも芸人でも同じ事で、銭を取りたいという野卑な根性や、他《ひと》に褒められたいという※[#「「滔」の「さんずい」に代えて「言」」、第4水準2−88−72]諛《おべっか》があっては美《い》い事は出来ないから、其様《そん》な了簡を打棄《うッちゃ》って、魂を籠めて不器用に拵えて見ろ、屹度《きっと》美い物が出来上るから、不器用にやんなさいと毎度申しますので、遂に不器用長二と綽名《あだな》をされる様になったのだと申すことで。

        二

 不器用長二の話を、其の頃浅草蔵前に住居いたしました坂倉屋助七《さかくらやすけしち》と申す大家《たいけ》の主人が聞きまして、面白い職人もあるものだ、予《かね》て御先祖のお位牌を入れる仏壇にしようと思って購《もと》めて置いた、三宅島の桑板があるから、長二に指《さ》させようと、店の三吉《さんきち》という丁稚《でっち》に言付けて、長二を呼びにやりました。其の頃蔵前の坂倉屋と申しては贅沢を極《きわ》めて、金銭を湯水のように使いますから、諸芸人はなおさら、諸職人とも何卒《どうか》贔屓を受けたいと願う程でございますゆえ、大抵の職人なら最上等のお得意様が出来たと喜んで、何事を措《お》いても直《すぐ》に飛んでまいるに、長二は三吉の口上を聞いて喜ぶどころか、不機嫌な顔色《かおつき》で断りましたから、三吉は驚いて帰ってまいりました。助七は三吉の帰りを待ちかねて店前《みせさき》に出て居りまして、
 助「三吉|何故《なぜ》長二を連れて来ない、留守だったか」
 三「いゝえ居りましたが、彼奴《あいつ》は馬鹿でございます」
 助「何《なん》と云った」
 三「坂倉屋だか何だか知らないが、物を頼むに人を呼付けるという事アない、己《おら》ア呼付けられてへい/\と出て行くような閑《ひま》な職人じゃアねえと申しました」
 助「フム、それじゃア何か急ぎの仕事でもしていたのだな」
 三「ところが左様《そう》じゃございません、鉋屑《かんなくず》の中へ寝転んで煙草を呑んでいました、火の用心の悪い男ですねえ」
 助「はてな……手前何と云って行った」
 三「私《わたくし》ですか、私は仰しゃった通り、蔵前の坂倉屋だが、拵えてもらう物があるから直に来ておくんなさい、蔵前には幾軒も坂倉屋があるから一緒にまいりましょうと云ったんでございます」
 助「手前入ると突然《いきなり》其の口上を云って、お辞儀も挨拶もしなかったろう」
 三「へい」
 助「それを失礼だと思ったのだろう」
 三「だって旦那寝転んでいる方が余《よっ》ぽど失礼でしょう」
 助「ムヽそれも左様《そう》だが、何《なん》か気に障った事があるんだろう」
 三「左様じゃアございません、全体馬鹿なんです」
 助「むやみに他《ひと》の事を馬鹿なんぞというものではございませんぞ」
 と丁稚を誡《いまし》めて奥に這入りましたが是まで身柄のある画工でも書家でも、呼びにやると直に来たから、高の知れた指物職人と侮《あなど》って丁稚を遣《や》ったのは悪かった、他《ほか》の職人とは異《かわ》っているとは聞いていたが、それ程まで見識のある者とは思わなんだ、今の世に珍らしい男である、御先祖様のお位牌を入れる仏壇を指させるには此の上もない職人だと見込みましたから、直に衣服を着替えて、三吉に詫言を云含めながら長二の宅へ参りました。長二は此の時出来上った書棚に気に入らぬ所があると申して、才槌《さいづち》で叩き毀《こわ》そうとするを、兼松が勿体ないと云って留めている混雑中でありますから、助七は門口に暫く控えて立聞きをして居りますと、
 長「兼公、手前《てめえ》は然《そ》ういうけれどな、拵《こせ》えた当人が拙《まず》いと思う物で銭を取るのは不親切というものだ、何家業でも不親切な了簡があった日にア、※[#「木へん+兌」、第3水準1−85−72]《うだつ》のあがる事アねえ」
 兼「それだって此のくれえの事ア素人にア分りゃアしねえ」
 長「素人に分らねえから不親切だというのだ、素人には分らねえから宜《い》いと云って拙いのを隠して売付けるのは素人の目を盗むのだから盗人《ぬすっと》も同様だ、手前《てめえ》盗人をしても銭が欲しいのか、己《おら》ア此様《こん》な職人だが卑しい事ア大嫌《でえきら》いだ」
 と丹誠を凝《こら》して造りあげた書棚をさい槌でばら/\に打毀《うちこわ》しました様子ゆえ、助七は驚きましたが、益々《ます/\》並の職人でないと感服をいたし、やがて表の障子を明けまして、
 助「御免なさい、私《わたくし》は坂倉屋助七と申す者で、少々親方にお願い申したい事があって、先刻出しました召使の者が、早呑込みで粗相を申し、相済みません、其のお詫かた/″\まいりました」
 と丁寧に申し述べましたから、流石《さすが》
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