緒に駈落をしたんだ、彼《あ》の婆さん、なか/\色気があったからなア」
 恒「馬鹿アいうもんじゃアねえ……何《なん》か訳のあることだろうがナア兼……婆さんの宿へ行って様子を聞いて見たか」
 兼「聞きやアしねえが、隣の内儀《おかみ》さんの話に、今朝婆さんが来て、親方が旅に出ると云って暇をくれたから、田舎へ帰《けえ》らなけりゃアならねえと云ったそうだ」
 恒「其様《そん》な事なら第一番《でえいちばん》に此方《こっち》へいう筈だ」
 兼「己も左様《そう》だと思ったから聞きに来たんだ、親方にも断らずに旅に出る筈アねえ」
 留「女房の置去という事アあるが、此奴《こいつ》ア妙だ、兼|手前《てめえ》は長兄に嫌われて置去に遭《あ》ったんだ、おかしいなア」
 兼「冗談じゃアねえ、若《わけ》え親方の前《めえ》だが長兄に限っちゃア道楽で借金があるという訳じゃアなし、此の節ア好《い》い出入場が出来て、仕事が忙がしいので都合も好い訳だのに、夜遁《よにげ》のような事をするとア合点《がってん》がいかねえ……兎も角も親方に会って行こう」
 と奥へ通りました。奥には今年六十七の親方清兵衞が、茶微塵《ちゃみじん》松坂縞《まつざかじま》の広袖《ひろそで》に厚綿《あつわた》の入った八丈木綿の半纒を着て、目鏡《めがね》をかけ、行灯《あんどん》の前で其の頃|鍜冶《かじ》の名人と呼ばれました神田の地蔵橋の國廣《くにひろ》の打った鑿《のみ》と、浅草田圃の吉廣《よしひろ》、深川の田安前《たやすまえ》の政鍜冶《まさかじ》の打った二挺の鉋《かんな》の研上《とぎあ》げたのを検《み》て居ります。年のせいで少し耳は遠くなりましたが、気性の勝った威勢のいゝ爺さんでございます。兼松は長二の出奔《しゅっぽん》を甚《ひど》く案じて、気が急《せ》きますから、奥の障子を明けて突然《いきなり》に、
 兼「親方大変です、何うしたもんでしょう」
 清「えゝ、何だ、仰山な、静かにしろえ」
 兼「だッて親方|私《わっち》の居ねい留守に脱出《ぬけだ》しちまッたんです」
 清「それ見ろ、彼様《あんな》にいうのに打様《うちよう》を覚えねえからだ、中の釘は真直《まっすぐ》に打っても、上の釘一本をあり[#「あり」に傍点]に打ちせえすりゃア留《とめ》の離れる気遣《きづけ》えは無《ね》いというのだ……杉の堅木《かたぎ》か」
 兼「まア堅気《かたぎ》だ、道楽をしねえから」
 清「大きいもんか」
 兼「私《わっち》より少し大きい、たしか今年廿九だから」
 清「何を云うのかさっぱり分らねえ、己《おら》ア道具の事を聞くのだ」
 兼「ムヽ道具ですか道具は悉皆《すっかり》家具《やぐ》蒲団まで私《わっち》にくれて行ったんです」
 清「まだ分らねえ……棚か箱か」
 兼「へい、店《たな》は貸店になっちまッたんです」
 清「何だと菓子棚だ、ウム菓子箪笥のことか、それが何うしたんだと」
 兼「何うしたんか訳が分らねえから聞きに来たんだが、親方へ談《はなし》なしだとねえ」
 清「そりゃア長二が為《す》る事だものを、一々|己《おれ》に相談する事アねえ」
 兼「だッて、それじゃア済まねえ、己《おら》ア其様《そん》な人とア思わなかった……情《なさけ》ねえ人だなア」
 清「手前《てめえ》何か其の仕事の事で長二と喧嘩でもしたのか」
 兼「いゝえ、長《なげ》え間|助《すけ》に行ってるが、喧嘩どころか大きい声をして呼んだ事もねえ……己《おれ》を可愛がって、近所の人が本当の兄弟《きょうでえ》でも彼《あ》アは出来ねえと感心しているくれえだのに、己が六間堀へ行ってる留守に黙って脱出《ぬけだ》したんだから、不思議でならねえ」
 清「何も不思議アねえ、手前《てめえ》の技《うで》が鈍いから脱出したんだ、長二は手前に何も云わねいのか」
 兼「何とも云いませんので」
 清「はてな、彼様《あんな》に親切な長二が教えねえ事アねえ筈だが……何か仔細《しせい》のある事だ」
 と腕組をして暫らく思案をいたし、
 清「些《すこ》し心当りがあるから明日《あした》でも己が尋ねてみよう」
 兼「左様《そう》です、何《なん》か深いわけがあるんです、心当りがあるんなら何も年寄の親方が行くにゃア及びません、私《わっち》が尋ねましょう」
 清「手前《てめえ》じゃア分らねえ、己が聞いてみるから手前今夜|帰《けえ》ったら、長二に明日《あす》仕事の隙《すき》を見て一寸《ちょっと》来てくれろと云ってくんな」
 兼「親方何を云うんです、家《うち》に居もしねえ長兄に来てくれろとア」
 清「何処《どこ》へ行ったんだ」
 兼「何処かへ身を隠したから心配《しんぺい》しているんだ」
 清「何だと、長二が身を隠したと、えゝ、そんなら何故速くそう云わねえんだ」
 兼「先刻《さっき》から云ってるんです」
 清「先刻からの話ア釘
前へ 次へ
全42ページ中22ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
三遊亭 円朝 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング