さんが下へ降りて行った後《あと》で、長二は己を棄てた夫婦というは何者であるか、又夫婦喧嘩の様子では、外に旦那という者があるとすれば、此の男と馴合《なれあい》で旦那を取って居たものか、但《たゞ》しは旦那というが本当の亭主で、此の男が奸夫《かんぷ》かも知れず、何《なん》にいたせ尋常の者でない上に、無慈悲千万な奴だと思いますれば、真《まこと》の親でも少しも有難くございません、それに引換え、養い親は命の親でもあるに、死ぬまで拾《ひろい》ッ子ということを知らさず、生《うみ》の子よりも可愛がって養育された大恩の、万分一も返す事の出来なかったのは今さら残念な事だと、既往《こしかた》を懐《おも》いめぐらして欝《ふさ》ぎはじめましたから、兼松が側《はた》から種々《いろ/\》と言い慰めて気を散じさせ、翌日共に泉村の寺を尋ねました。寺は曹洞宗《そうどうしゅう》で、清谷山《せいこくざん》福泉寺と申して境内は手広でございますが、土地の風習で何《いず》れの寺にも境内には墓所《はかしょ》を置きませんで、近所の山へ葬りまして、回向《えこう》の時は坊さんが其の山へ出張《でば》る事ですから、長二も福泉寺の和尚に面会して多分の布施を納め、先祖の過去帳を調べて両親の戒名を書入れて貰い、それより和尚の案内で湯河原村の向山にある先祖の墓に参詣いたしたので、婆さんは喋りませんが、寺の和尚から、藤屋の客は棄児の二助だということが近所へ知れかゝって来ましたから、疵の痛みが癒ったを幸い、十一月の初旬《はじめ》に江戸へ立帰りました。さて長二はお母が貧乏の中で洒《すゝ》ぎ洗濯や針仕事をして養育するのを見かね、少しにても早くお母の手助けになろうと、十歳の時自分からお母に頼んで清兵衛親方の弟子になったのですから、親方から貰う小遣銭《こづかいぜに》はいうまでもなく、駄菓子でも焼薯《やきいも》でもしまって置いて、仕事場の隙《すき》を見て必ずお母のところへ持ってまいりましたから、清兵衞親方も感心して、他の職人より目をかけて可愛がりました。斯様《かよう》に孝心の深い長二でございますから、親の恩の有難いことは知って居りますが、今度湯治場で始めて長左衛門夫婦は養い親であるということを知ったばかりでなく、実《まこと》の親達の無慈悲を聞きましたから、殊更《ことさら》に養い親の恩が有難くなりましたが、両親とも歿《な》い後《のち》は致し方がございませんから、切《せ》めては懇《ねんごろ》に供養でもして恩を返そうと思いまして、両親の墓のある谷中|三崎《さんさき》の天竜院《てんりゅういん》へまいり、和尚に特別の回向を頼み、供養のために丹誠をこらして経机《きょうづくえ》磐台《きんだい》など造って、本堂に納め、両親の命日には、雨風を厭《いと》わず必ず墓まいりをいたしました。

        十一

 斯様な次第でございますから、何となく気分が勝《すぐ》れませんので、諸方から種々《いろ/\》注文がありましても身にしみて仕事を致さず、其の年も暮れて文政四|巳年《みどし》と相成り、正月二月と過ぎて三月の十七日は母親《おふくろ》の十三年忌に当りますから、天竜院に於《おい》て立派に法事を営み、親方の養子夫婦は勿論兄弟弟子一同を天竜院へ招待《しょうだい》して斎《とき》を饗《ふるま》い、万事|滞《とゞこお》りなく相済みまして、呼ばれて来た人々は残らず帰りましたから、長二は跡に残って和尚に厚く礼を述べて帰ろうといたすを、和尚が引留めて、自分の室《へや》に通して茶などを侑《すゝ》めながら、長二が仏事に心を用いるは至極|奇特《きどく》な事ではあるが、昨年の暮頃から俄かに仏|三昧《ざんまい》を初め、殊に今日の法事は職人の身分には過ぎて居《お》るほど立派に営みしなど、近頃|合点《がてん》のいかぬ事種々あるが是には何か仔細のある事ならん、次第によっては別に供養の仕方もあれば、苦しからずば仔細を話されよと懇《ねんごろ》に申されますゆえ、長二も予《かね》て機《おり》もあらば和尚にだけは身の上の一伍一什《いちぶしじゅう》を打明けようと思って居りました所でございますから、幸いのことと、自分は斯々《かく/\》の棄児《すてご》にて、長左衛門夫婦に救われて養育を受けし本末《もとすえ》を委《くわ》しく話して居りますところへ、小坊主が案内して通しました男は、年の頃五十一二で、色の白い鼻準《はなすじ》の高い、眼の力んだ丸顔で、中肉中背、衣服は糸織藍万《いとおりあいまん》の袷《あわせ》に、琉球紬《りゅうきゅうつむぎ》の下着を袷重ねにして、茶献上の帯で、小紋の絽《ろ》の一重羽織を着て、珊瑚《さんご》の六分珠《ろくぶだま》の緒締《おじめ》に、金無垢の前金物《まえがなもの》を打った金革の煙草入は長門の筒差《つゝざし》という、賤《いや》しからぬ拵えですから、長二は遠慮
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