れるから、先へ帰れと仰しゃいましたから、私《わたくし》はお新造より先へ帰りました」
 奉「柳の実家《さと》と申すは何者じゃ、存じて居《お》るか」
 茂「へい八王子の千人同心だと申す事でございますが、家《うち》が死絶《しにた》えて、今では縁の伯母が一人あるばかりだと申すことでございますが、私《わたくし》は大横町《おおよこちょう》まで送って帰りましたから、先の家《うち》は存じません」
 奉「其の方の外に一緒にまいった者は無いか」
 茂「はい、誰《たれ》も一緒にまいった者はございません」
 奉「黙れ、其の方は上《かみ》に対し偽りを申すな、幸兵衛も同道いたしたであろう」
 茂「へい/\誠にどうも、宅《うち》からは誰《だれ》も外にまいった者はござりませんが、へい、アノ五宿《ごしゅく》へ泊りました時、幸兵衛が先へまいって居りまして、それから一緒にヘイ、つい古い事で忘れまして、まことにどうも恐入りました事で」
 奉「フム、左様《さよう》であろう、して、柳は幾日《いくか》に出て幾日に帰宅をいたしたか存じて居ろう」
 茂「へい左様……正月二十八日に出まして、あのう二月の二十日頃に帰りましたと存じます」
 奉「それに相違ないか」
 茂「相違ございません」
 奉「確《しか》と左様か」
 茂「決して偽りは申上げません」
 奉「然らば追って呼出すまで、茂二作夫婦とも旅行は相成らんぞ、町役人共左様に心得ませい……立ちませい」
 是にて此の日のお調べは済みました。

        三十四

 奉行は吟味中お由の口上で、図らずお柳の懐妊の年月《ねんげつ》が分ったので、幸兵衛が龜甲屋へ出入を初めた年月《としつき》を糺《たゞ》すと、懐妊した翌月《よくつき》でありますから、長二は幸兵衛の胤《たね》でない事は明白でございますが、お柳は実母に相違ありませんから、まだ親殺しの罪を遁《のが》れさせることは出来ません。是には奉行も殆《ほと》んど当惑して、最早長二を救うことは出来ぬとまで諦められました。
 由「私《わたし》ア本当に命が三年ばかし縮まったよ」
 茂「男でさえ不気味だもの、其の筈だ」
 由「大屋さんは平気だねえ」
 茂「そうサ、自分が調べられるのじゃアないからの事《こっ》た、此方《こち》とらはまかり間違えば捕縛《ふんじば》られるのだから怖《おっ》かねえ」
 由「今日の塩梅じゃア心配しなくっても宜《い》いようだねえ」
 茂「手前《てめえ》が余計なことを喋りそうにするから、己《おら》ア冷々《ひや/\》したぜ」
 由「行く前に大屋さんから教わって置いたから、襤褸《ぼろ》を出さずに済んだのだ、斯ういう時は兀頭《はげ》も頼りになるねえ」
 茂「それだから鰻で一杯飲ましてやったのだ」
 由「鰻なぞを喰ったことが無いと見えて、串までしゃぶって居たよ」
 茂「まさか」
 由「本当だよ、お酒も彼様《あん》な好《い》いのを飲んだ事アないと見えて、大層酔ったようだった」
 茂「己《おれ》も先刻《さっき》は甚《ひど》く酔ったが、風が寒いので悉皆《すっかり》醒《さ》めてしまった」
 由「早く帰って、又一杯おやりよ」
 と茂二作夫婦は世話になった礼心《れいごゝろ》で、奉行所から帰宅の途中、ある鰻屋へ立寄り、大屋|徳平《とくへい》に夕飯《ゆうめし》をふるまい、徳平に別れて下谷稲荷町の宅へ戻りましたのは夕|七時半《なゝつはん》過で、空はどんより曇って北風が寒く、今にも降出しそうな気色《けしき》でございますので、此の間から此の家の軒下を借りて、夜店を出します古道具屋と古本屋が、大きな葛籠《つゞら》を其処へ卸して、二つ三つ穴の明いた古薄縁《ふるうすべり》を前へ拡《ひろ》げましたが、代物《しろもの》を列《なら》べるのを見合せ、葛籠に腰をかけて煙草を呑みながら空を眺めて居ります。
 茂「やア道具屋さんも本屋さんも御精が出ます、何だか急に寒くなって来たではありませんか」
 道「お帰りですか、商売|冥利《みょうり》ですから出ては見ましたが、今にも降って来そうですから、考えているんです」
 茂「こういう晩には人通りも少ないからねえ」
 本「左様《そう》ですが天道干《てんとうぼし》という奴ア商いの有無《あるなし》に拘わらず、毎晩《めいばん》同《おんな》じ所《とけ》え出て定店《じょうみせ》のようにしなけりゃアいけやせんから、寒いのを辛抱して出て来たんですが、雪になっちゃア当分喰込みです」
 茂「雪は後《あと》が長くわるいからね」
 と立話をしておりますうち、お由が隣へ預けて置いた入口の締《しまり》の鍵を持って来て[#「来て」は底本では「来って」と誤記]、格子戸を明けましたから、茂二作は内へ入り、お由は其の足で直《すぐ》に酒屋へ行って酒を買い、貧乏徳利《びんぼうどくり》を袖に隠して戻りますと、茂二作は火種にいけて
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