演術者たる圓朝子と、両々相対して亦是れ名人競たるを知らん。
乙未初秋
[#地から4字上げ]土子笑面識
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一
これは享和《きょうわ》二年に十歳で指物師《さしものし》清兵衛《せいべえ》の弟子となって、文政《ぶんせい》の初め廿八歳の頃より名人の名を得ました、長二郎《ちょうじろう》と申す指物師の伝記でございます。凡《およ》そ当今美術とか称えまする書画彫刻|蒔絵《まきえ》などに上手というは昔から随分沢山ありますが、名人という者はまことに稀《まれ》なものでございます。通常より少し優れた伎倆《うでまえ》の人が一勉強《ひとべんきょう》いたしますと上手にはなれましょうが、名人という所へはたゞ勉強したぐらいでは中々参ることは出来ません。自然の妙というものを自得せねば名人ではございません。此の自然の妙というものは以心伝心とかで、手を以《もっ》て教えることも出来ず、口で云って聞かせることも出来ませんゆえ、親が子に伝えることも成らず、師匠が弟子に譲るわけにもまいりませんから、名人が二代も三代も続くことは滅多にございません。さて此の長二郎と申す指物師は無学文盲の職人ではありますが、仕事にかけては当時無類と誉められ、江戸町々の豪商《ものもち》はいうまでもなく、大名方の贔屓《ひいき》を蒙《こうむ》ったほどの名人で、其の拵《こしら》えました指物も御維新《ごいっしん》前までは諸方に伝わって珍重されて居りましたが、瓦解《がかい》の時二束三文で古道具屋の手に渡って、何《ど》うかなってしまいましたものと見えて、昨今は長二の作というものを頓《とん》と見かけません。世間でも長二という名人のあった事を知っている者が少《すくの》うございますから、残念でもありますし、又先頃弁じました名人|競《くらべ》のうち錦の舞衣《まいぎぬ》にも申述べた通り、何芸によらず昔から名人になるほどの人は凡人でございませぬゆえ、何か面白いお話があろうと存じまして、それからそれへと長二の履歴を探索に取掛りました節、人力車から落されて少々怪我をいたし、打撲《うちみ》で悩みますから、或人の指図で相州《そうしゅう》足柄下郡《あしがらしもごおり》の湯河原《ゆがわら》温泉へ湯治《とうじ》に参り、温泉宿|伊藤周造《いとうしゅうぞう》方に逗留中、図らず長二の身の上にかゝる委《くわ》しい事を聞出しまして、此のお話が出来
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