、彼《あ》の日逐電して行方知れず、落書《らくがき》だらけの扇子《おうぎ》が善之進殿の死骸の側に落ちて有ったが、その扇子は部屋で又市が持っていた事を私は承知して居《い》るから、敵《かたき》は私の考えでは又市に相違なし、お国表へ立廻る彼《あ》アいう悪い心な奴、殊に腕前が宜しいから何《ど》んな事を仕出《しで》かすかも知れん、故に私が改めて貴公に頼むは、何うか隠密《おんみつ》になってお国表へ参って、貴公が何うか又市を取押えて呉れんか……照お前は何処迄《どこまで》も又市を探《たず》ねて討たんければならぬが、私から山平殿に一緒に行って下さいとは、何うも養子に来て間もなし、頼む訳には表向《おもてむき》いかんから、お前はお父様《とっさま》やお母様《っかさま》への申訳に、私《わたくし》も武士の家へ生れ女ながらも敵討を致したい故、池の端の弁天様へ、兄の仇《あだ》を討たぬ中《うち》は決して良人《おっと》を持ちませんと命に懸けての心願である処へ、強《た》って養子をしろと仰しゃるから養子をしたが、重二郎とは未《いま》だ同衾《ひとつね》を致しませんのは、是まで私が思い立った事を果《はた》さずば、何うも私が心に済みません、神に誓った事もあり、仇討《あだうち》に出立致す不孝の段はどの様にもお詫致す、無沙汰で家出致す重々不埓はお宥《ゆる》し下さいと、文面は私《わし》が教えるから私の云う通りに書きなさい、また山平殿は……貴公に倶《とも》に行って下さいとは云われないが、山平殿は国表へ参って彼《かれ》を取調べ、助太刀をしてお照が仇討をして帰る時、貴公も共に其の所へ行合《ゆきあ》わし、幸い助太刀をして本意を遂げさせしと云ってお帰りになれば、貴公の家は何うか潰《つぶ》さぬ様に致そう、重二郎刀に掛けても致すから、二人へ改めて頼む訳にはいかんが、然うして仇《あだ》を討たせて望《のぞみ》を叶《かな》えてやって下さい…お前は奉公した事がないからお父様お母様に我儘を云うが、山平殿は親切なれども長旅の事、我儘な事を云って山平殿に見捨てられぬ様に中好《なかよ》う、なにさ若《も》し捨てられては仇は討てず、亦これから先は長い旅、水も異《かわ》り気候も違うから、詰らん物を食して腹を傷《いた》めぬ様にしなさい、左様《そう》じゃアないか、何でも身を大切にして帰って来てくれんければ困りますぞ、縦《たと》えあゝは仰しゃるが、二人で居たから密通と思召《おぼしめ》すに違いない、密通もせぬに然う思われては残念と刃物三昧でもすると、お父様お母様に猶更《なおさら》済みませんぞよ、必ずとも道中にて悪い物を食して、腹に中《あた》らぬ様にしなさるが宜《よ》いのう、お照」
と五月《いつゝき》になるお照の身重の腹を、重二郎に持って居ります扇でそっと突かれた時は、はッとお照は有難涙《ありがたなみだ》に思わず声が出て泣伏しました。
十一
山平も面目なく、
山「何共《なにとも》申訳はござらぬ、重々不埓至極な事拙者…」
重「いゝや少しも不埓な事はござらん、国表に於《おい》て又市が何《ど》んな事を為《す》るか知れん、万一重役を欺《あざむ》き、大事は小事より起る譬喩《たとえ》の通りで捨置かれん……お父様お母様へも書置を認《したゝ》めるが宜《よ》い……硯箱《すゞりばこ》を持って来な」
きん「はい」
重「硯箱を早く」
きん「はい」
重「何《な》んだ是は、松魚節箱《かつおぶしばこ》だわ」
きん「はい」
と漸《ようや》く硯箱を取寄せて、紙《かみ》筆《ふで》を把《と》らせましても、お照は紙の上に涙をぽろ/\こぼしますから、墨がにじみ幾度も書損《かきそこ》ない、よう/\重二郎の云う儘に書終り、封を固く致しました。
重「これは私がお母様の何時《いつ》も大切に遊ばす彼《あ》の手箱の中へ入れて置く……きん、何《ど》うも長い間|度々《たび/\》照が来てお前の家《うち》でも迷惑だろう、主人の娘が貸してくれと云うものを出来ぬとは義理ずくで往《い》かんし、親切に世話をしてくれ忝《かたじけ》ない、多分に礼をしたいが、帰り掛《がけ》であるからのう、是は誠に心ばかりだが世話になった恩を謝するから」
きん「何う致しまして私《わたくし》がそれを戴いては済みません、何うかそれだけは」
重「いゝや、其の替り頼みがあるが、今日|私《わし》が来て照と山平殿に頼んで旅立をさせた事は、是程も口外して呉れては困る、少しも云ってはならぬよ、口外して他《ほか》から知れゝば、お前より外《ほか》に知る者はないから拠《よんどころ》なくお前を手に掛けて殺さなければならんよ」
きん「はい/\/\どう致しまして申しません」
重「じゃア宜しい、さア山平殿、照早く表へ出なさい、宜しいから先に立って出なさい」
二人は何事も只《た》だ有難いと面目ないで前後不覚の様《よう》に
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