善「これ/\水司、あれほど云うに分らぬか、若い者を打擲《ちょうちゃく》して殺す気か、痴《たわ》けた奴だ、左様なる事をすると武田へ云ってしくじらせるが何《ど》うか、これ此の手を放さぬか/\」
 と云いながら十三間の平骨の扇で続け打《うち》にしても又市は手を放しませんから、月代際《さかやきぎわ》の所を扇の要《かなめ》の毀《こわ》れる程強く突くと、額は破れて流れる血潮。又市は夢中で居ましたが、額からぽたり/\血が流れるを見て、
又「はアお打擲に遇《あ》いまして、手前面部へ疵《きず》が出来ました」
善「左様なまねをするから打擲したが如何《いかゞ》致した、汝はな此の後《ご》斯様《かよう》な所へ立廻ると許さぬから左様心得ろ、痴呆《たわけ》め、早く帰れ/\」
又「何も心得ません処の田舎侍でござって、一つ屋敷の侍が斯様なる所へ来て恥辱を受けますれば、その恥辱を上役のお方が雪《そゝ》いで下さることと心得ましたを、却《かえ》って御打擲に遇いまして残念でござりまする、只今帰るでござる、これ女ども袴と腰の物を是へ持て」
 と急に支度をしてどん/\/\/\と毀れるばかりに階子《はしご》を駈下《かけお》りると、止せば宜《よ》いに小増を始め芸者や太鼓持まで又市の跡を付けて来まして、
小「あれさ、お上役に逢っては一言もないからさ泣面《なきつら》してさ、泣面は見よい物じゃアないねえ、あの火吹達磨や、泣達磨や、へご助や」
 とわい/\言われるから猶更|逆上《のぼ》せて履物《はきもの》も眼に入《い》らず、紺足袋《こんたび》のまゝ外へ出ましたが、丁度霜月三日の最早|明《あけ》近くなりましたが、霜が降りました故か靄《もや》深く立ちまして、一尺先も見分《みわか》りませんが、又市は顔に流るゝ血を撫でると、手のひらへ真赤《まっか》に付きましたから、
又「残念な、武士の面部へ疵を付けられ、此の儘《まゝ》には帰られん、たとえ上役にもせよ憎い奴は中根善之進、もう毒喰わば皿まで、彼奴《あいつ》帰れば武田に告げ、私《わし》をしくじらせるに違いない、殊《こと》には衆人満座の中にて」
 と恋の遺恨と面部の疵、捨置きがたいは中根めと、七軒町《しちけんちょう》の大正寺《たいしょうじ》という法華寺《ほっけでら》の向《むこ》う、石置場《いしおきば》のある其の石の蔭《かげ》に忍んで待っていることは知りません、中根は早帰りで、銀助《ぎん
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