たが、此の車夫は泳ぎを心得て居ると見え、抜手《ぬきで》を切って岸辺へ泳ぎ附くを、又作が一生懸命に車の簀蓋《すぶた》を取って、車夫の頭を狙《ねら》い打たんと身構えをしました。是からどういう事に相成りますか、一寸《ちょっと》一息《ひといき》致しまして申上げましょう。
三
さて春見丈助は清水助右衞門を打殺《うちころ》しまして、三千円の金を奪い取りましたゆえ、身代限りに成ろうとする所を持直《もちなお》しまして、する事為す事皆当って、忽《たちま》ち人に知られまする程の富豪《ものもち》になりました。又|一方《かた/\》は前橋の竪町で、清水助右衞門と云って名高い富豪《ものもち》でありましたが、三千円の金を持って出た切《ぎ》り更に帰って来ませんので、借財方から厳しく促《はた》られ遂《つい》に身代限りに成りまして、微禄《びろく》いたし、以前に異《かわ》る裏家住《うらやずま》いを致すように成りました。実に人間の盛衰は計られぬものでございます。春見が助右衞門を殺します折《おり》に、三千円の預り証書を春見の目の前へ突付け掛合う中《うち》に、殺すことになりまして、人を殺す程の騒ぎの中《なか》ですから、三千円の証書の事には頓《とん》と心付きませんでしたが、後《あと》で宜《よ》く考えて見ますと、助右衞門が彼《あ》の時我が前に証書を出して、引換えに金を渡せと云って顔色を変えたが彼《か》の証書の、後《あと》にないところを見れば、他《ほか》に誰《たれ》も持って行《ゆ》く者はないが、井生森又作はあア云う狡猾《こうかつ》な奴だから、ひょっと奪《と》ったかも知れん、それとも助右衞門の死骸の中へでも入っていったか、何しろ又作が帰らなければ分らぬと思って居りましたが、三ヶ年の間又作の行方《ゆくえ》が知れませんから、春見は心配で寝ても寝付かれませんから、悪い事は致さぬものでございますが、凡夫《ぼんぷ》盛んに神|祟《たゝ》りなしで、悪運強く、する事なす事儲かるばかりで、金貸《かねかし》をする、質屋をする、富豪《ものもち》と云われるように成って、霊岸島川口町《れいがんじまかわぐちちょう》へ転居して、はや四ヶ年の間に前の河岸《かし》にずうっと貸蔵《かしぐら》を七つも建て、奥蔵《おくぐら》が三戸前《みとまえ》あって、角見世《かどみせ》で六間間口の土蔵造《どぞうづくり》、横町《よこちょう》に十四五間の高塀《たかべい》が有りまして、九尺《くしゃく》の所に内玄関《ないげんかん》と称《とな》えまする所があります。実に立派な構えで、何一つ不自由なく栄燿栄華《えいようえいが》は仕ほうだいでございます。それには引換え清水助右衞門の忰《せがれ》重二郎は、母|諸共《もろとも》に千住《せんじゅ》へ引移りまして、掃部宿《かもんじゅく》で少し許《ばか》りの商法を開《ひら》きました所が、間《ま》が悪くなりますと何をやっても損をいたしますもので、彼《あれ》をやって損をしたからと云って、今度は是《こ》れをやると又損をして、遂《つい》に資本《しほん》を失《なく》すような始末で、仕方がないから店をしまって、八丁堀亀島町《はっちょうぼりかめじまちょう》三十番地に裏屋住《うらやずま》いをいたして居りますと、母が心配して眼病を煩《わずら》いまして難渋《なんじゅう》をいたしますから、屋敷に上げてあった姉を呼戻し、内職をして居りましたが、其の前年《まえのとし》の三月から母の眼がばったりと見えなくなりましたゆえ、姉はもう内職をしないで、母の介抱ばかりして居ります。重二郎は其の時廿三歳でございますが、お坊さん育ちで人が良うございますから智慧《ちえ》も出ず、車を挽《ひ》くより外《ほか》に何も仕方がないと、辻へ出てお安く参りましょうと云って稼いで居りましたが、何分にも思わしき稼ぎも出来ず、遂《つい》に車の歯代《はだい》が溜《たま》って車も挽けず、自分は姉と両人で、二日《ふつか》の間は粥《かゆ》ばかり食べて母を養い、孝行を尽《つく》し介抱いたして居りましたが、最《も》う世間へ無心に行《ゆ》く所もありませんし、何《ど》うしたら宜《よろ》しかろうと云うと、人の噂に春見丈助は直《じ》き近所の川口町にいて、大《たい》した身代に成ったという事を聞きましたから、元々|馴染《なじみ》の事ゆえ、今の難渋を話して泣付《なきつ》いたならば、五円や十円は恵んで呉れるだろうというので、姉と相談の上重二郎が春見の所へ参りましたが、家の構えが立派ですから、表からは憶《おく》して入れません。横の方へ廻ると栂《つが》の面取格子《めんとりごうし》が締《しま》って居りますから、怖々《こわ/″\》格子を開けると、車が付いて居りますから、がら/\/\と音がします。驚きながら四辺《あたり》を見ますと、結構な木口《きぐち》の新築で、自分の姿《なり》を見ると、単物
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