の長屋を支配なさる藤兵衞殿と仰しゃる仁《かた》かえ」
藤「ヘエ/\、ヘエ」
武「今|御尊家《ごそんか》へ出たよ」
藤「私《わたくし》の宅《うち》へ入っしゃいました、左様ですか、えゝ此者《これ》がその孫右衞門[#「孫右衞門」は底本では「孫兵衞」と誤記]と申す者」
武「はい始めまして、えゝ承れば当家《とうけ》でもとんだ災難で、何かその数寄屋河岸の柳番屋の蔭へ袖乞いに出た娘に、通り掛った侍が金子《かね》を呉れて、それが不正金で親子の者が、図らざる災難を受けたというは気の毒な事で、お前は嘸《さぞ》かし御心配な事で」
藤「へえ誠に心配致して居りますので、何うか分りますれば宜《い》いと思って居ります」
武「いやそれは心配には及ばん、明日《あした》私《わし》が其のお筆さんと云う娘《こ》を町奉行所へ訴え出て帰れるようにして遣る、其の金は己《わし》が遣ったんだ」
藤「へえー、左様で、それなれば何も仔細無い事で、何かお上でもお疑いがございまして、不正金とか何とか云う事を申すので困りましたが、誠にどうも殿様が下さいましたのなら何も仔細は有りません、孫右衞門[#「孫右衞門」は底本では「孫兵衞」と誤記]さんお前さん一寸《ちょっと》御挨拶を」
武「はいお父《とっ》さんか始《はじめ》てお目に懸ったが実は日外《いつぞや》私《わし》が数寄屋河岸を通り掛るとお前の娘子が私《わたくし》も親の病中其の日に困り親共には内々《ない/\》で斯様《かよう》な処へ出て袖乞をすると言って涙を溢《こぼ》して袖に縋られ、誠に孝行な事と感服して聊《いさゝ》か恵みをしたのが却《かえ》って害に成って、不図《とんだ》災難を被《き》せて気の毒で有ったが、明日《あす》私が訴えて娘子は屹度《きっと》帰れる様にして上げるが、名前も明さずに金子《かね》を遣った処は誠に済まんが、明日は早々にお筆さんの帰れる様にして上げるから、金子を遣って苦労をかけた段は免《ゆる》して下さい」
藤「何う致しまして、有難い事で、お礼を云いなよ、殿様が下さったんだから心配はない」
孫「はい、誠に有難う、心の中《うち》で私《わたくし》は一生懸命に観音を信心致しました、どうも昨夜《ゆうべ》貴方少しうと/\致しまして夢を見て、観音様が私の枕辺《まくらべ》に立って、助けて遣るぞ助けて遣るぞと仰しゃいました、目が覚めますと矢張り宅《うち》に寝て居ったので、不断其の事ばかり思って居るから観音様の夢を見たのだ、あゝ観音様も分らねえと神や仏を恨む様な愚痴を云って居ましたが殿様が出て己《おれ》が遣ったと云って下さいますればお上に於いてもお疑いは無い事で、お筆は免されて帰れますが、少しも早く、成ろう事なら今晩帰る様に」
武「今日は些《ちっ》と遅いから明日《あした》屹度帰す、是は誠に心ばかりだが……娘は明日屹度取戻してお前の家《うち》へ帰るようにして上げるが、此金《これ》は真《ほん》の心ばかりだ、是は決して不正金でも何《なん》でもない仔細の無い金子《かね》だから、どうか心置きなく使って下さい、私《わし》が遣ったに違いない」
藤「誠に恐入ります、是は何うも娘を帰して下さるのみならず多分の金子《かね》を……」
武「いや沢山《たんと》はないたった十金だから、何《なん》ぞ暖《あったか》い物でも買っておあがり」
藤「是は恐入ります、おい孫右衞門[#「孫右衞門」は底本では「孫兵衞」と誤記]さん旦那様が十両下すったよ」
孫「十両よりはお筆を早く帰して下さい」
藤「そんな事を云うものじゃアない親父は少し取逆上《とりのぼせ》て居ますので」
武「えゝお家主一寸自身番まで一緒に行って貰いたい」
藤「へえ、自身番は直《すぐ》其処《そこ》で」
武「少し御相談が有るから、じゃアお父《とっ》さん私《わし》は帰る、明日《あした》屹度お筆さんを帰すよ心配しちゃアいかん、心を確《しっ》かり持っておいで、大丈夫だから」
藤「はい有難う存じます、又《ま》た多分のどうもお恵みで有り難う存じます」
武「さ、行きましょう」
藤「へえ、じゃア宜《い》いかえ孫右衞門[#「孫右衞門」は底本では「孫兵衞」と誤記]さん、今|宅《たく》の何をよこすから、旦那と一緒に自身番まで往って来るから、此方《こちら》へ入《いら》っしゃいまし、板ががた付いて居ます、修《なお》そうと存じて居ますが、遂《つい》大金が掛りますので、何卒《どうぞ》此方へ」
武「はい/\」
是から路地を出て町内の角の自身番まで参り、
藤「誠に爺嗅い処で、何うか此方へ」
武「いやもう構ってお呉れでない心配をせんが宜《よ》ろしい、え明日《あした》私《わし》が奉行所へ出て私が金子《かね》を遣ったに相違ない事を訴えれば、仔細はない、が長屋に事の有る時は支配を致して居《い》る処のお家主の御迷惑はお察し申して居る」
藤「へえ実は私《わたくし》も心配致して居ましたが、殿様が遣ったと仰しゃって下さいますれば何も仔細ない事で」
武「明日は少し早く四ツ時分から腰掛へ出て居て貰い度《た》い」
藤「へえ/\四ツ時分からへえ成程」
武「えゝ此の近辺でなんですかえ、金満家《かねもち》は何処《どこ》ですな」
藤「えゝ金満家と申しますと」
武「いえさ、町内で金満家の聞えの有る家《うち》は」
藤「左様でございますなどうも太刀伊勢屋《たちいせや》などは大層お金持だそうで」
武「他には」
藤「質屋で伊勢銀《いせぎん》と云うが有ります」
武「じゃア伊勢銀の方に仕様」
藤「是からお出でに成りますなら御一緒に参りましょうか」
武「いや一緒に行かんでも宜しい、エ、明日お筆さんをお前が引取に来なければならんから、組合を連れて印形《いんぎょう》持参でお出《いで》を願い度《た》い」
藤「宜しゅうございます、承知致しました」
武「あれは天正金《てんしょうきん》で有るか無いかは明日出れば分ります、大きに御厄介で有った」
藤「まアお茶を」
武「いえ宜しい、左様なら」
すうっと帰って仕舞いましたから何《なん》だか家主にも薩張《さっぱり》分りません。家主の藤兵衞はあれ程の殿様だから嘘も吐《つ》くまい、併《しか》しよもやあの人が盗賊では有るまい、それにしても何《ど》う云う事であの金が彼《あ》の人の手に這入ったか、と考えて見たが少しも分りません、まさか彼奴《あいつ》が盗賊なら私《わたくし》が泥坊でござると云って奉行所へ出る気遣いは無いが何うしよう。と町代《ちょうだい》の與兵衞《よへえ》という者と相談の上で四ツ時に町奉行の茶屋に詰めて居ります。四ツ半に成っても来ません。
與「藤兵衞さん」
藤「えゝ」
與「何《なん》だかお前の云う事は当《あて》にならねえ、未《ま》だ来やアしねえ、何《な》んだか変だぜ」
藤「だって誠に品格《ひん》の好《よ》い、色白な眉毛の濃い、目のさえ/″\した笑うと愛敬の有る好い男の身丈《せい》のスラリとした」
與「男振や何かは何うでも宜《よ》いが是は来ないぜ」
藤「然《そ》うですな、おやお隣町内の伊勢銀さん何うです」
芳[#「芳」は底本では「若」と誤記]「なに盗賊が這入りまして金を二百両盗まれましたから訴えるんで、宅《うち》は大騒ぎです」
藤「昨夜《ゆうべ》盗賊が、へえー、何処《どこ》から這入りました、家尻を切ったって、へーえ何うもそれはとんだ事でしたな、お代《だい》に芳造《よしぞう》さんですか、それはまア不図《とんだ》御災難で」
芳「へえ、酷《ひど》い目に遭いました」
藤「少しも知りませんでげした」
芳「土蔵や何かは余程気を注《つ》けますんですが」
藤「へえー」
と話をして居ります処へ件《くだん》の武家《さむらい》が雪駄でチャラリ/\腰掛へ這入って来ました。
藤「おや是は入らっしゃいましそれ見なせえ嘘う吐くものか入らしった、さどうぞ此方《こちら》へ」
武「昨日《さくじつ》は色々お世話に……今日《こんにち》は早くから出ようと思ったが少々余儀ない事で友達に逢って暇乞《いとまご》いなどをして居たんで少々時刻が遅れてお待たせ申して済みません」
武「えゝ此のお方は」
藤「えゝ組合の名主代で」
武「大きに御苦労」
與「えへゝゝ町内の小間物屋の娘をお助け下さり有難う存じます」
武「はい御奉行のお退出《さがり》までは未だ余程|間《あいだ》が有ります」
藤「えゝ殿様一体あの一件は何《ど》う云う事なんで、へゝゝ附かん事を伺います様だが、何ういう理由《わけ》かあの金子《きんす》をお上では不正金だって、三星の刻印が打って有るなどと申しますが」
武「うむ、彼金《あれ》は芝赤羽根の中根兵藏方の家尻を切って盗んだのが丁度十二月十二日の晩でね、八百両取ったんだ」
藤「へえー、其の盗賊が知れませんので」
武「いや其金《それ》を取った賊は拙者だ」
藤「えへゝゝ御冗談を、えへゝゝ」
武「いや全くだ、何うも、悪い事を誰も知らん者は無い、賊を働くは悪い事で天道に背くとは思いながら、知りつゝ此の賊になるもねお家主、是は皆|前生《ぜんせい》の約束事かと思う、悪いから止《や》めようとしても止められんね、これは妙なもので、十四の時から私《わし》は盗賊を為《し》ます」
藤「えへゝゝ御冗談ばかり」
武「いや冗談じゃアない、実は中国の浪士で両親共|逝去《なく》なって伯母の手許に厄介に成って居《お》ったが十四歳から賊心を発《おこ》して家出をなし長い間賊を働いて居ったが是まで知れずに居ったのだがね」
藤「へえー全く殿様が」
武「あい、何うも止めようと思っても止められんものだね、私《わし》が取った金を遣ったんだと斯《こ》う云って出れば、お筆さんの助からん事は有るまい、私も長らく他人《ひと》の物を盗み取って旨い物を喰い好《よ》い着物も着たが、金子《かね》を沢山取った割合には夫程《それほど》栄耀《えよう》はせんよ、皆《みん》な困る者に恵んだ方が多い、可哀想だと思っては恵み、己《おのれ》の罪を重ねる道理だから止そうとは思い/\止められんと云う処が是が因果じゃな、前世の約束事で有ろう、もう天命を知りこゝらが丁度宜い死に処だ、私は廿九に成りますよ」
藤「へえー、えへゝゝ、へえー」
武「名乗って出てお上の御処刑を受けた跡でお題目の一遍も称《あ》げてお呉れ」
藤「へえ、途方もない御冗談ばかり」
武「いや冗談じゃア無い全くだ、其方《そちら》のお方は」
藤「是は伊勢銀と申す町内の質屋の手代でげすが、昨晩盗賊が家尻を切りましたので今日《こんにち》お訴えに参って居りますので」
というと武士《さむらい》は平気で、
武「左様か直《すぐ》に分りますよ、昨夜お前さんの処の家尻を切ったのは私《わし》だよ」
芳[#「芳」は底本では「若」と誤記]「え、貴方、へえー」
武「それは気の毒千万な、お手数をかけて、全くはお家主が彼家《あすこ》は金持だとのお指図で……」
藤「私《わたくし》は其んな事は云やアしません、驚いたなア」
何うも沈着《おちつ》いたもので、是から八ツの御退出《おさがり》から一同曲淵甲斐守公のお白洲へ出ました、孫右衞門[#「孫右衞門」は底本では「孫兵衞」と誤記]の娘お筆も引出《ひきいだ》され、訴えの趣きを目安方が読上げますると甲斐守様がお膝を進められまして、
甲「備前岡山無宿|月岡幸十郎《つきおかこうじゅうろう》」
幸「へえ」
甲「其の方が訴え出でたる趣きは十一月廿二日の夜《よ》芝赤羽根勝手ヶ原中根兵藏方へ忍び入り、家尻を切って八百両盗み取ったる金子の内を、数寄屋河岸の柳番屋の蔭に於て是なる筆に恵み与えたるに相違なく、筆には毛頭罪なき事であればお免《ゆる》しを願い度《たき》趣を訴え出でたるが全く其の方が盗み取ったる金子を是なる筆に遣わしたに相違ないか」
幸「えゝ先夜は私《わたくし》が柳番屋の蔭を通り掛りますると、是なる筆が私の袖に縋って涙を零《こぼ》しながら頼みます故、何故《なにゆえ》袖乞をするかと尋ねましたら、父が長らくの患い、腰が抜けて起居《たちい》も自由ならず商売も出来ませんの
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