板の間を働いたという濡衣を着て、親父に面目ないと思う処から入水致しました処を、助けられたは仕合せで有ったが、その又己れを助けて呉れた米倉屋孫右衞門が零落を致して、京橋鍛冶町の裏家住い搗《かて》て加えて長《なが》の病気というので、今は最《も》う何も彼《か》も売尽した処から袖乞いに出る様な始末、
筆「今日も夜更けて人も通らず、したが今夜百文でも二百文でも貰って帰らなければ私の命を助けて呉れた大事なお父様《とっさん》に明日《あした》喰べさせるものを宛《あて》がう事も出来ず、と云ってお腹《なか》を空《すか》させては済まない、私は喰べなくても宜《い》いから何卒《どうぞ》お父様丈にはお粥でも炊いて上げなければ成らないから、もう詮方《しかた》がない、いやらしい事を云う人でも有ったら誠に道ならん事では有るが寧《いっ》そ此の身を任しても親の為めには替えられない」
と、覚悟を致し、ヒューという寒風《かぜ》を凌《しの》いで柳番屋の蔭に立って居ると、向うから前《ぜん》申し上げた黒縮緬の頭巾を被り大小を落差しに致して黒無地の羽織、紺足袋という扮装《こしら》えで通りました、白張《しらはり》の小田原提灯が見えましたから、
筆「アヽお武家で有るか、万一《ひょっと》したら少しはお恵みが有ろう」
と思いツカ/\/\と来《きた》り、もう怖いも恥かしいも打忘れ武家の袂《たもと》に縋《すが》り、
筆「お願いでございます」
武家「ア…はアヽ……誰《たれ》も居らんかと思ったので大きに恟《びっく》り致したが、何《なん》だえ、女子《おなご》かえ」
筆「はい…お父《とっ》さんが長々煩いまして其の日に追われ、何も彼《か》も売尽しましてもう明日《あした》は親どもにお米を買って喰べさせる事が出来ません、それ故誠にお恥かしい事でございますが、毎日|此処《これ》へ参りましては人様のお袖へ縋って聊《いさゝ》かの御合力《ごごうりょく》を受けまして親子の者が露命《いのち》を繋《つな》いで居る者でございます、けれ共今晩|斯様《かよう》に風が吹きますので薩張《さっぱり》人通りがございませんから、是迄立って居ましたが少しのお恵みも受けませず、今晩此の儘帰りましては親を見殺しに致す様なものと存じまして誠に御無理ではございますが百文でも二百文でもお恵み下さいますれば親子の者が助かります、何卒《どうぞ》殿様お願いでございます」
武家「はい…はい、それはお気の毒な事じゃ、むー…」
小田原提灯をこう持上げて見ますると、下を向いて袖を顔に押当て、ポロ/\泣いて居ります。眤《じっ》とその様子を見て居りましたが、軈《やが》て一掴みの金子を小菊に包んで、
武「これを遣わすから、早う帰って親御に孝行を致せ、したが女子《おなご》の身の夜中《やちゅう》と云い、いかなる災難に遇わんとも限らんから向後《きょうこう》袖乞は止《や》めに致すがよい」
とお筆に渡すと其の儘往って仕舞いました。お筆は嬉し涙にくれて見送って居りましたが家《うち》へ帰って包を明けて見ますと古金《こきん》で四五十両、お筆は恟《びっく》りして四辺《あたり》を見廻し、
筆「はア…何《ど》うしたんだろう、心の迷いじゃアないか知ら、先刻《さっき》彼所《あすこ》を通り掛ったのは武士《さむらい》と思ったのが狐か何かで私を化《ばか》したのじゃアないか知らん、私がお鳥目を欲しいと思う其の気を知ってつままれたのか知らん」
と足をギイーッと抓《つね》ったが痛いから、
筆「夢じゃアないが、ハテ何うしたんだろう、向後袖乞に出るなと仰しゃったから、御親切な殿様で私の戸外《おもて》へ出ない様に多分にお金を下すった事か、あゝー……私の為には神さま……」
と手を合せて伏拝み何所《どこ》の人だか知りませんから心の中《うち》で頻《しき》りと礼を云い、翌日《あした》に成りますると先《ま》ず此金《これ》でお米を買うんだと云う、其のお米を買うたって一時《いちじ》に沢山《たんと》買って知れては悪いと思いましたから、狐鼠《こっそ》り少し買い、一朱もお金を出せば薪も買えれば炭も買える、又金を一つ処へ仕舞って置いて知れると悪いと思いましたから、彼方此方《あっちこっち》へお金を片附けて仕舞って置きまして、些《ちっ》とずつ出して使い、
筆「お父《とっ》さまはお寒かろうから暖《あった》かい夜具を着せたい」
と夜見店《よみせ》へ参りまして古着屋から小僧さんに麻風呂敷に掻巻《かいまき》に三布蒲団《みのぶとん》を背負《せお》い込ませ、長家の者に知れない様にお父さんに半纏を着せたいと云うので段々と狐鼠《こそ》/\買物をして参りますが、世間じゃア直《すぐ》に目が着きます、或る時例の姐子《あねご》が、
姐「おい勘次や」
勘「えゝ」
姐「奥のお筆さんは良《い》い旦那でも附いたのじゃアねえ
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