此処《こゝ》へお出で、泣かなくっても宜《よ》い、実に私が泣きたい位だ、少し察しておくれ」
 筆「はい嘸段々お淋《さむ》しゅうございましょう」
 孫「いやもう只《たっ》た一人の娘を失《なく》してまるきり暗夜《やみ》になったようで、お前さんを見ると思い出します、然《しか》しまア私の娘の方は事が分って、斯《こ》うやって二七日《ふたなぬか》も済ましたが、遂々《つい/\》娘の事ばかり思って居て、お前|様《さん》の事を聞くのも段々延びたが、何うかお前さんの身の上を打明けて呉れないと困る、ねえ二十日も三十日も人の娘を只預かってお前様の親御に申訳ない、只駈出した訳でない、何《いず》れ仔細あって出た事であろうから親御の心配と云う者は一方ならん事で、お前が明らさまに云って呉れないと何うも困るねえ」
 筆「はい」
 孫「何卒《どうぞ》云って下さい、ねえ私も斯《こ》うやって愁傷の中だから心配を掛けて下さるな」
 妻「本当に旦那の云う通り、して若い中《うち》から余り丈夫でないから今年五十四になって、殊におとみが彼《あ》アいう訳になってから、なお/\ヨボ/\して来てねえ、然《そ》うしてお前のお父《とっ》さんの処へ送り届けなければならないと心配して居ますが、只《たっ》た一人の娘を失《なく》したから何《なん》ならお前さんを家《うち》の娘に貰いたい位で、何しろ話して下さいな」
 とだん/\親切に夫婦が尋ねますからお筆は、胸に迫り、繻絆《じゅばん》の袖で涙を拭きながら、
 筆「はい、はい、誠に御心配を掛けて済みません、それでは申上げますが私《わたくし》は築地小田原町に居りまする下河原清左衞門と申す浪人ものゝ娘でございます」
 孫「なに下河原、フム御浪人だね、築地小田原町で……お母《っか》さんもお達者かえ」
 筆「いえ、私《わたくし》が四つの時に亡なりまして、親父の丹精で是までに成長致しました」
 孫「おゝそれでは尚更案じて居ましょう、早くお知らせ申さなければいけない、これよ時藏や」
 時「へえ」
 孫「えー築地小田原町で何《なん》とか云ったのう、うむ下河原清左衞門と云うお方だ、其の娘でな……お名前は何とお云いだね」
 筆「ふでと申します」
 孫「まアおふでさんかえ……お前一つ下河原さんへ行って、実はお娘子《むすめご》のおふでさんが永代橋から身を投げた処を助けた処が、何《ど》うしても名前を云わないでお届け申す事が出来ず、其の中《うち》私《わたくし》の方でも愁傷の中《なか》で取紛れて、存じながらお訪ね申さなかったが、段々とお尋ね申した末に、漸くお名前も知れたから早速お知らせ申すが、御無事でお在《いで》だから御心配をなさるな、明日《みょうにち》此方《こちら》からお娘子を連れて参るから前以てお知らせ申すと早く行って来な、あゝ申しお家主の名は何《なん》と申しますえ」
 筆「はい金兵衞さんと申します」
 孫「町役人《ちょうやくにん》は金兵衞|様《さん》というのだよ、大急ぎでなア」
 時「へえー」
 奉公人は駈出して参りましたが暫らく経って夜《よ》に入《い》って帰って参りました。
 時「へえ只今行って参りました」
 孫「あゝ御苦労だった、分ったかえ」
 時「へえ解りました」
 孫「親御|様《さん》も嘸《さぞ》案じて居たろう」
 時「それが其の親御がお娘子を捜しに出たきり行方が知れませんというので」
 妻「此の姉さんのお父《とっ》さんが」
 時「へえ、家主《おおや》さんが大変に案じてお在《い》でゞ、其のお父さんが、只《たっ》た一人の娘を失《なく》し今まで知れないのは全く死んだに違いない、最早楽しみもないから頭を剃って廻国《かいこく》するという置手紙を残して居なくなって仕舞い、諸道具も置形見にして行きましたと云って家主様《おおやさん》も大変心配して居た処へ、此方《こちら》から知らせたので夫婦共に大喜びで、どうも有難い、決してお出でには及びません、私《わたくし》の方から引取に出でます、今晩遅くとも上《あが》りますという事でございます」
 孫「それは/\親切の家主《いえぬし》さんだ」
 筆「えゝ夫《そ》れではお父様《とっさま》は剃髪して廻国にでもお出《いで》になりましたか」
 と泣倒れます。
 孫「それだから早くお前さんが然《そ》う云えば宜《い》いのに、今になって然《そ》んな事を云っても仕方がない、家主が引取に来ると云うから、御酒《ごしゅ》の一盞《ひとつ》も上げなければならないから其の支度をして置きなさい、肴も何か好《よ》い物を取って置くが宜《よ》い…、なに然う泣いて居てはいけない、お父様《とっさん》が頭を剃って廻国をすると云って行方知れずになり、お母様《っかさん》も親類もなくお前さん一人に成って、他に兄弟衆もなく心細くもあろうから、私の処へ居て、是も何《なん》ぞの因縁と思って家《う
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