せん。なれども故郷忘じ難く、黒坂一齋の相果てゝからは、何《ど》うも朋輩《ほうばい》の交際《つきあい》が悪うございますから、もう二三年も経ったから知れやしまいと思って、又奥州仙台から、江戸表へ出て来たのは、十一月の丁度二十日でございます。先《ま》ず浅草の観音様へ参って礼拝《らいはい》を致し、是から何処《どこ》へ行《ゆこ》うか、何《ど》うしたらよかろうと考える中《うち》に、ふと胸に浮んだのは勇治《ゆうじ》と云う元屋敷の下男で、我が十二歳ぐらいの頃まで居たが、其の者は本所辺に居ると云う事で、慥《たし》か松倉町と聞いたから、兎も角も此の者を尋ねて見ようと思い、吾妻橋《あづまばし》を渡って、松倉町へ行《ゆ》きます。菅《すげ》の深い三度笠を冠《かぶ》りまして、半合羽《はんがっぱ》に柄袋《つかぶくろ》のかゝった大小を帯《たい》し、脚半甲《きゃはんこう》がけ草鞋穿《わらじばき》で、いかにも旅馴れて居りまする扮装《いでたち》、行李《こうり》を肩にかけ急いで松倉町から、斯《こ》う細い横町へ曲りに掛ると、跡からバラ/\/\と五六人の人が駈けて来るから、是は手が廻ったか、しくじったと思い、振返って見ると、案の如く小田原提灯が見えて、紺足袋《こんたび》に雪駄穿《せったばき》で捕者《とりもの》の様子だから、あわてゝ其処《そこ》にある荒物屋の店の障子をがらりと明けて、飛上ったから、荒物屋さんでは驚きました。
女房「何ですねえ、恟《びっく》りしますね」
と云うと、
新「ハイ/\/\」
と云ってブル/\慄《ふる》えながら、ぴったり後《うしろ》を締めて障子の破れから戸外《そと》を覗《のぞ》いて居ります。
十三
女「まア何処《どこ》の方です、突然《いきなり》人の家《うち》へ這入って、草鞋をはいたなりで坐ってサ、何《ど》うしたんだえ」
新「是は/\何うも誠に相済まぬが、今間違で詰らぬ奴に喧嘩を仕掛けられ、私は田舎|武士《ざむらい》で様子が知れぬから、面倒と思って、逃ると追掛《おっか》けたから、是は堪《たま》らんと思って当家へ駈込みお店を荒して済みませんが、今覗いて見れば追掛けたのではない酒屋の御用が犬を嗾《けし》かけたのだ、私は只怖いと思ったものだから追掛けられたと心得たので、誠に相済みません」
女「困りますね、草鞋を脱いで下さい、泥だらけになって仕様がございませんね、アレ塩煎餅《しおせんべい》の壺へ足を踏みかけて、まアお前さん大変|樽柿《たるがき》を潰したよ」
新「誠に済まないが、ツイ踏んで二つ潰したから、是は私が買って、あとは元の様に積んで置きます、あの出刃庖丁は何《なん》でげすな」
女「あれは柿の皮を剥《む》くのでございますよ、何《ど》うも困りますね、だが買って下さればそれで宜《よ》うございますが、けれども貴方草鞋をおとんなさいナ」
新「何《ど》うか、樽柿は幾個《いくつ》でも買いますが、何うかお茶でも水でも下さい」
女「お茶は冷《つめと》うございますが、ナニ沢山買って下さらないでも、潰れただけの代を下さればようございます」
新「えゝ御家内|此処《こゝ》は何《なん》と云う処でございますえ」
女「此処は本所松倉町でございます」
新「あゝ左様かえ、少しお聞き申すが、前々《ぜん/″\》小日向|服部坂《はっとりざか》の屋敷に奉公を致して居った勇治と云う者が此の近処《きんじょ》に居りませんか、年は今年で五十八九になりましょうか、慥《たし》か娘が一人あって其の娘の夫は*※[#「操のつくり」、第4水準2−4−19]掻《こまいかき》と聞きましたが」
*「壁下地の小竹をとりつける職人」
女「貴方は、なんでございますか、深見新左衞門様の若様でございますか」
新「えゝ何あのお前は勇治を御存知かえ」
女「ハイ私は勇治の娘でございますよ、春と申しまして」
新「はあ然《そ》う」
春「私はね、もうねお屋敷へ一度参った事がございますがね、其の時分は幼少の時で、まアお見違《みそれ》申しました、まだ貴方のお小さい時分でございましたからさっぱり存じませんで、大層お立派におなり遊ばしたこと、お幾才《いくつ》におなり遊ばした」
新「今年二十三になります」
春「まアお屋敷もね、何だか不祥《いや》な事になりまして、昨年私の親父も亡なりましたが、お屋敷はあゝなったが、若様は何《ど》うなされたかお行方が知れぬが、ひょっとして尋ねていらっしゃったら、永々《なが/\》御恩を受けたお屋敷の若様だから何《ど》んなにもして上げなければならん、と死際《しにぎわ》に遺言して亡なりましたが、貴方が若様なれば何うか此方《こちら》へ一晩でもお泊め申さんでは済《すみ》ませんから」
新「やれ/\是は/\左様かね、図らず勇治の処へ来たのは何より幸《さいわい》で、拙者は深見新
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