とよろよろしながら一角の前へ来て、
貞「へえ先生」
安「来たのは誰だ」
貞「麹屋のお隅が、先生にお目に掛ってお話し申し度い事があって、雪の降る中を態々《わざ/\》参ったといいます」
安「隅が来たか、はて、うっかり明けるな、えゝ彼《かれ》は此の一角を予《かね》て敵《かたき》と附狙《つけねら》うことは風説にも聞いていたが、全く左様と見える、うっかり明けて、角力取《すもうとり》などを連れてずか/\這入られては困るから能く気を附けろ、えゝ全く一人か、一人なら入れたっても好《い》いが」
貞「これ、お隅、何かえ、お前誰か同伴《つれ》がありますかい、大勢連れてお出でかい、角力取は来ましたのかい」
隅「いゝえ私一人でございます、一寸《ちょいと》此処《こゝ》を明けて下さいませんか、お前さん貞藏さんじゃアありませんか」
貞「なに貞藏、己の名を知ってるな、うん成程知ってる訳だ、私《わし》が水街道へ先生のお供にいった事があるから、今明けるよ、妙なもんだなア、おう好《よ》い塩梅にこれ雪が上って来た、大層積ったなア、おゝおゝ、ふッ、足の甲までずか/\踏み込む様だ、待ちな今明けるぞ、待ちな、閂《かんぬき》がかって締りが厳重にしてあるから、や、そら、おや一人で傘なしかい」
隅「はい少しは降っておりましたが、気が急《せ》きましたから、跣足《はだし》で参りました」
貞「おゝ/\私《わし》はやっと此処《こゝ》まで雪を渉《わた》って来たのだが、能く夜中《やちゅう》に渡しの船が出たねえ」
隅「はい、あの、船頭は馴染でございますから、頼んで渡して貰って、漸《やっ》とのことで参りました」
貞「それはえらい、さア此方《こっち》へ、先生たった一人で渡を渡って跣足で参ったと云うので」
安「それは思い掛けない、なに傘なしで、それはそれは、雪中といい、どうも夜中といい、一人でえらいのう、誠にどうも、さア此方《こっち》へ」
隅「先生誠に暫くお目に掛りませんで」
安「いや誠にこれは、うーん己は無沙汰をしております、暫く常陸へ参った処が、彼方《あちら》で些《ちっ》と門弟も出来たから、近郷の名主庄屋などへ出稽古を致して、久しく彼方にいて、今度又|此方《こちら》へ来た処が、先《せん》に住《すま》った家は人に譲ったから、まア家の出来るまで、当期此の庵室におる積りで、だが手前能く尋ねて来たねえ」
隅「誠にどうも御無沙汰を致しまして」
安「此の夜中雪の降る中を踏分けて何《ど》うして来た」
七十五
隅「あの今日富五郎が来ましてね、何か先生に頼まれた事があると云って、私の処へ客になって来まして、お酒に酔って何《なん》だか種々《いろ/\》な事を云いますの、けれども其の様子がさっぱり分りませんから、其の事に付いて先生にお目に掛らなければ様子が分りませんから」
安「それはどうも、富五郎が行ったかい、貞藏、富五郎が往ったって」
貞「だから私が先生に申上げて置きました、彼奴《あいつ》は誠にあゝいう処ばかり遊びに参るのが好きでげす、全体道楽者でげすからなア、彼奴|余程《よっぽど》婦人|好《ずき》でげすよ」
安「で、富五郎が往って何《ど》ういう話し振の、まア一杯[#「一杯」は底本では「一抔」]飲め」
隅「有難うございます、まアお酌を」
安「イヤ一杯[#「一杯」は底本では「一抔」]飲め」
隅「左様でございますか、貞藏さん、お酌を、恐れ入ります」
貞「いや久し振りでお酌をする、私《わし》の名を心得ているから妙でげすな、久しい前に一度先生のお供を致しましたが、其の時逢った一度で私の名まで覚えているというのは、商売柄は又別なものでげす、お隅さん相変らず美しゅうございますな」
安「これお隅、手前名主の手を切って麹屋の稼ぎ女になったとか、枕附で出るとかいう噂があったが嘘だろうな」
隅「いゝえ嘘ではございません、誠にお恥かしゅうございますけれどもべん/\とあゝ遣ってもいられませんから、種々《いろ/\》考えました処が、江戸には親類もありますから、何卒《どうぞ》江戸へ参り度《た》いと思いまして、故郷《こきょう》が懐かしいまゝ無理に離縁を取って出ましたが、手振り編笠《あみがさ》、姑《しゅうと》が腹を立って追出すくらいでございますから、何一つもくれませぬ、それ故少しは身形《みなり》も拵《こさ》えたり、江戸へ行《ゆ》くには土産でも持って行《ゆ》かなければなりませぬ、それには普通《たゞ》の奉公では埓《らち》が明きませんから、いや/\ながら先生お恥かしい事になりました」
安「オヽ左様か、じゃア自《みずか》ら稼いで苦しみ、金を貯めてなにかい身形を拵えて江戸へ行《い》こうと云う訳か、どうも能く離縁が出たのう」
隅「それが向《むこう》で出さないのを此方《こっち》から強情に取
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