《おおやかん》を取って、
 富「申上げまする」
 といいながら顛覆《ひっくりかえ》しましたから、ばっと灰神楽《はいかぐら》が上《あが》りまして、真暗《まっくら》になりました。なれども角力取|等《ら》は大様《おおよう》なもので、胡坐《あぐら》をかいたなり立上りも致しません。
 花「何をするぞ」
 という内に富五郎は遁出《にげだ》しましたが、悪運の強い奴で、表へ遁げれば弟子《でし》が頑張っているから直《すぐ》に取って押えられるのでございますが、裏口の方から駈出し、畑を踏んで逃げたの逃げないの、一生懸命になってドン/\/\/\遁げましたが、羽生村へは逃げて行かれませぬから、直に安田一角の処へ駈込んで行って、
 富「ハ、ハ、先生/\」
 安「なんだ、サア此方《こちら》へ」
 富「は…ア水を一杯|頂戴《ちょうだい》」
 安「なんだ、ナニ水をくれと、どうしたんだ、喧嘩でもしたか」
 富「いいえ、どうも喧嘩どこではございませぬ、脊骨をどやして飯を吐かせるて、実にどうも驚きました」
 安「誰《だ》れが飯を吐いたか」
 富「なに私《わし》が吐くので、先生運|好《よ》く此処《こゝ》まで逃げたが、もう此処にもおられぬので、直に私は逃げますから、路銀を二三十金拝借致し度《た》い」
 安「どうしたか、そう騒いではいかない」
 富「どうも先生、これ/\でげす」
 と一部始終の話をしますると、相手は角力取ですから一角も不気味《ぶきび》でございますが、
 安「然《そ》うか、驚くことはない、私《わし》が殺したという事を云いはしまい」
 富「何《なん》で…それはいいませぬ、足下《そっか》とちゃんとお約束を致した廉《かど》がありますから、仮令《たとえ》脊骨をどやされて骨が折れてもそれは云わん、云わぬに依《よ》ってこんな苦しい目を致したから、可哀そうと思って二三十金ください、直に私《わし》は逃げますから」
 安「何《な》んだ、何んにも怖いことはない」
 富「怖いことはないと仰しゃるが、足下知らないからだ、何《ど》うも彼奴《あいつ》の力は無法な力で、只握られたばかりでもこんなに痣《あざ》になるのだもの」
 安「じゃア貴公に路銀を遣るから逃げるがよい」
 富「足下も早く、直に跡から遣って来ますよ」
 安「遣って来ても云いさえせんければ宜しい」
 富「理不尽に…」
 安「幾ら理不尽でも白状せぬのに踏込《ふんご》んでどうこうという訳にはいかぬ」
 富「無法に打《ぶ》ちますよ」
 安「なに打たれはせぬ、仔細ない」
 富「仔細ないと仰しゃるが、私《わし》の跡を追掛《おっか》けて来て富五郎はいるか、慝《かく》まったろう、イエ慝まわぬ、居ないといえばじゃア戸棚に居ましょうというので捜しましょう、そうで無いにしても表で暴れて家を揺《ゆすぶ》ると家が潰れるでしょう、奴の力は大した者だから、やアというと家《うち》に地震が揺《い》って打潰《ぶっつぶ》されて了《しま》います、何《なん》にしても家《うち》にいると面倒だから迯《に》げて下さい、え、先生」
 安「じゃア路銀を遣るから先へ逃げな」
 富「迯げるなら一緒に迯げたいものです」
 安「一緒に迯げては人の目に立ってよくない、己が手紙を一本付けるから之《これ》を持って、常陸の大方村《おおかたむら》という処に私《わし》の弟子があるから、其処《そこ》へ行って隠れておれば知れる訳は無いから、ほとぼりが冷めたら又出て来い、私は一足|後《あと》から、ナニ暴れても仔細ない、逢い度《た》いといえば余義ない用事が出来て上総《かずさ》へ行ったとか、江戸へ行ったとか、出鱈目を云っておれば取り附く島が無いから仕方が無い、貴公は先へ行きな」
 富「じゃア路銀を頂戴、私《わし》はすぐ行《ゆ》きます」
 安「そう急がずに」
 と落着いて手紙一本書いて、路銀を附けて遣ると、富五郎は其の手紙を持って人に知れぬ様に姿を隠し、間道《かんどう》/\と到頭《とうとう》逃げ遂《おお》せて常陸へ参りました。安田一角も引続いて迯げる、花車重吉は、
 花「おのれ迯げやアがったか」
 と直《すぐ》に後《あと》を追掛けましたけれども、羽生村では此方《こっち》へは来ないというから、サテ怪しいと諸方を尋ねたが何分手掛りがありません。一角の様子を聞くと是は私用があって上総まで出たというので、頓《とん》と手掛りが無い、風を食《くら》って二人とも迯げてしまったから、もう帰る気遣いはないが、安田一角の家《うち》は其の儘になって弟子が一人留守番に残っている。どういう訳か分らぬが何《なん》でも怪しいから取《とっ》て押えんければならぬが、それには先《まず》第一富五郎をどうかして押えなければならぬと心得、
 花「残念な事をしました、これ/\これ/\で押えた奴を迯げられました」
 というと、お隅も母も残念がって歎き
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