ござりませんから、只つまらないのは盲人宗悦で、娘二人はいかにも愁傷致しまして泣いて居る様子が憫然《ふびん》だと云って、長屋の者が親切に世話を致します混雑の紛れに逃げました賭博打《ばくちうち》二人は、遂に足が付きまして直《すぐ》に縄に掛って引かれまして御町《おまち》の調べになり、賭博兇状《ばくちきょうじょう》と強迫兇状《ゆすりきょうじょう》がありました故其の者は二人とも佃島《つくだじま》へ徒刑になりました。上方者は自分の物だと言って他人の物を引入れました廉《かど》は重罪でございますけれども格別のお慈悲を以て所払いを仰せ付けられまして其の一件《こと》は相済みましたが、深見新左衞門の奥方は、あゝ宗悦は憫然《かわいそう》な事をした、何《ど》うも実に情ないお殿様がお手打に遊ばさないでも宜《よ》いものを、別に怨《うらみ》がある訳でもないに、御酒の上とは云いながら気の毒な事をしたと絶えず奥方が思います処から、所謂《いわゆる》只今申す神経病で、何となく塞いで少しも気が機《はず》みません事でございます。翌年になりまして安永三年二月あたりから奥方がぶら/\塩梅が悪くなり、乳が出なくなりましたから、門番の勘藏《かんぞう》がとって二歳《ふたつ》になる新吉《しんきち》様と云う御次男を自分の懐へ入れて前町《まえまち》へ乳を貰いに往《ゆ》きます。と云うものは乳母を置く程の手当がない程に窮して居るお屋敷、手が足りないからと云うので、市ヶ谷に一刀流の剣術の先生がありまして、後《のち》に仙台侯の御抱《おかゝ》えになりました黒坂一齋《くろさかいっさい》と云う先生の処に、内弟子に参って居《お》る惣領《そうりょう》の新五郎《しんごろう》と云う者を家《うち》へ呼寄せて、病人の撫擦《なでさす》りをさせたり、或《あるい》は薬其の外《ほか》の手当もさせまする。其の頃新五郎は年は十九歳でございますが、よく母の枕辺《まくらべ》に附添って親切に看病を致しますなれども、小児《こども》はあり手が足りません。殿様はやっぱり相変らず寝酒を飲んで、奥方が呻《うな》ると、
新「そうヒイ/\呻ってはいけません」
などと酔った紛れにわからんことを仰しゃる。手少なで困ると云って、中働《なかばたらき》の女を置きました。是は深川《ふかゞわ》網打場《あみうちば》の者でお熊《くま》と云う、年二十九歳で、美女《よいおんな》ではないが、色の白いぽっちゃりした少し丸形《まるがたち》のまことに気の利いた、苦労人の果《はて》と見え、万事届きます。殿様の御酒の相手をすれば、
新「熊が酌をすれば旨い」
などと酔った紛れに冗談を仰しゃると、此方《こちら》はなか/\それ者《しゃ》の果と見えてとう/\殿様にしなだれ寄りましてお手が付く。表向《おもてむき》届けは出来ませんがお妾と成って居る。するともと/\狡猾な女でございますから、奥方の纔訴《ざんそ》を致し、又若様の纔訴を致すので、何となく斯《こ》う家がもめます。いくら言っても殿様はお熊にまかれて、煩《わずら》って居る奥様を非道な事をしてぶち打擲《ちょうちゃく》を致します。もう十九にもなる若様をも煙管《きせる》を持って打《ぶ》つ様な事でございますから、
新五郎「あゝ親父《おやじ》は愚《ぐ》な者である、こんな処にいては迚《とて》も出世は出来ぬ」
と若気の至りで新五郎と云う惣領の若様はふいと家出を致しますると、お熊はもう此の上は奥様さえ死ねば自分が十分|此処《こゝ》の奥様になれると思い、
熊「わたしは何《ど》うも懐妊した様でございます、四月から見るものを見ませぬ酸《す》ッぱい物が食べたい」
何《なん》のと云うから殿様は猶更《なおさら》でれすけにおなり遊ばします。追々其の年も冬になりまして、十一月十二月となりますと、奥様の御病気が漸々《だん/\》悪くなり、その上寒さになりましてからキヤ/\さしこみが起り、またお熊は、漸々お腹が大きくなって身体が思う様にきゝませんと云って、勝手に寝てばかり居るので、殿様は奥方に薬一服も煎《せん》じて飲ませません。只勘藏ばかりあてにして、
新「これ/\勘藏」
勘「ヘエ、殿様貴方御酒ばかり召上って居て何《ど》うも困りますなア奥様は御不快で余程御様子が悪いし、殊《こと》には又お熊|様《さん》はあゝやって懐妊だからごろ/″\して居り、折々《おり/\》奥様は差込むと仰しゃるから、少しは手伝って頂きませんじゃア、手が足りません、私《わたくし》は若様のお乳を貰いに往《い》くにも困ります」
新「困っても仕方がない、何か、さしこみには近辺の鍼医《はりい》を呼べ、鍼医を」
と云うと、丁度|戸外《おもて》にピー、と按摩《あんま》の笛、
新「おゝ/\丁度按摩が通るようだ、素人《しろうと》療治ではいかんから彼《あ》れを呼べ/\」
勘「ヘエ」
と按摩を
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