ヤ/\西洋にも幽霊がある、決して無いとは云われぬ、必ず有るに違いない」と仰しゃるから、私共は「ヘエ然《そ》うでございますか、幽霊は矢張《やっぱり》有りますかな」と云うと、又外の物識の方は、「ナニ決して無い、幽霊なんというは有る訳のものではない」と仰しゃるから、「ヘエ左様でございますか、無いという方が本当でげしょう」と何方《どちら》へも寄らず障らず、只云うなり次第に、無いといえば無い、有るといえば有る、と云って居れば済みまするが、極《ごく》大昔に断見《だんけん》の論というが有って、是は今申す哲学という様なもので、此の派の論師の論には、眼に見え無い物は無いに違いない、何《ど》んな物でも眼の前に有る物で無ければ有るとは云わせぬ、仮令《たとえ》何んな理論が有っても、眼に見えぬ物は無いに違いないという事を説きました。すると其処《そこ》へ釈迦が出て、お前の云うのは間違っている、それに一体無いという方が迷っているのだ、と云い出したから、益々分らなくなりまして、「ヘエ、それでは有るのが無いので、無いのが有るのですか」と云うと、「イヤ然《そ》うでも無い」と云うので、詰り何方《どちら》か慥《たし》かに分りません。釈迦と云ういたずら者が世に出《いで》て多くの人を迷わする哉《かな》、と申す狂歌も有りまする事で、私共は何方へでも智慧のある方《かた》が仰しゃる方《ほう》へ附いて参りまするが、詰り悪い事をせぬ方《かた》には幽霊という物は決してございませんが、人を殺して物を取るというような悪事をする者には必ず幽霊が有りまする。是が即ち神経病と云って、自分の幽霊を脊負《しょ》って居《い》るような事を致します。例えば彼奴《あいつ》を殺した時に斯《こ》ういう顔付をして睨《にら》んだが、若《も》しや己《おれ》を怨《うら》んで居やアしないか、と云う事が一つ胸に有って胸に幽霊をこしらえたら、何を見ても絶えず怪しい姿に見えます。又その執念の深い人は、生きて居ながら幽霊になる事がございます。勿論死んでから出ると定《き》まっているが、私《わたくし》は見た事もございませんが、随分生きながら出る幽霊がございます。彼《か》の執念深いと申すのは恐しいもので、よく婦人が、嫉妬のために、散《ちら》し髪で仲人の処へ駈けて行《ゆ》く途中で、巡査《おまわり》に出会《でっくわ》しても、少しも巡査が目に入りませんから、突当るはずみに、巡
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