松屋の婆さんは出しませんね、何うかお前さん旦那も来て始めて逢った時にもあゝしてくれたんだからと云っても、決してそんな事をする義理合《ぎりあい》は有りませんと云うような顔附から、慾にばかり目を附ける婆《ばゝあ》で、彼奴《あいつ》は腹でも切りそうな婆です………まお暇《いとま》致しましょう、へい左様なら御機嫌宜しゅう」
美「まことにお草々《そう/\》致しました、車でも」
三「えい私の家《うち》に帰るんですから、なに車も待たして置きましたから、ちょうどあの車に乗って帰ります、へい左様ならお女中、御新様《ごしんさま》それじゃお泊《とま》んなすって………左様なら」
 と三八は帰ってしまう。これから温《あった》かい物でお飯《まんま》を食べさせて、親子の者を丁寧に客座敷の方《かた》に寝かして、自分は六畳の茶の間の方に寝ました。夜《よ》が明けると、お美代が側に床を並べて寝ていた庄三郎の居ないに驚いた。
美「何処へ往ったろう………旦那は何処かへお出でなすった………兼《かね》や(下女の名)旦那はお手水《ちょうず》かえ」
兼「いゝえ存じませんよ、先刻《さっき》から此処で焚き附けて居りますが、知りませんよ」
美「何処へ往ったんだろう」
 と呼んでも音も沙汰も無い。はて変だ。と思って二畳の処を開けに掛ると、栓張《しんばり》が支《か》ってあって唐紙《からかみ》が明きません。
美「旦那」
 と、揺《ゆすぶ》るとたんにがらりと転げた音がする。飛び込んで見ると藤川庄三郎は何時《いつ》の間にか合口を取って、立派に腹一文字に掻切って死んで居りました。恟《びっく》りしたのはお美代。
美「さア皆《みん》な起きてお出でなさい、良人《うちのひと》が腹を切りました」
 というから店の者も出てまいった。店もまだ開けない中《うち》でございますが、目の見えないおふみまでも来て子供も死骸に取り縋《すが》って泣き出しまする。すると傍《かたわら》の硯箱《すゞりばこ》の上に書残した一封が有ります。これを開いて見ると、
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書遺《かきのこ》し候我等|一昨年《いっさくねん》九月四日の夜《よ》奧州屋新助殿をお久《ひさ》の実の兄と知らず身請[#「身請」は底本では「見請」]されては一分立たずと若気の至りにて妻恋坂下に待受《まちうけ》して新助殿を殺害《せつがい》致し候其の時新助殿始めて松山の次男なる事を打明《うちあか》し十九ケ年の年月《としつき》を経て妹《いもと》お久に巡り合い身請をして此の庄三郎と夫婦にさせんと存じて約束致し候其の帰り途《みち》なり斯《かく》なるは不孝の罪|持合《もちあわ》せたる金《かね》五百両は其方様《そなたさま》に差し上げ候間是にて妹お久を身請して女房《にょうぼ》となし松山の家《いえ》を立てさせくれと今際《いまわ》の頼み其の場は遁《のが》れ去り其の金《きん》五百円にてお久を身受致《みうけいたし》夫婦と相成候それ故に苗字を取《とっ》て松山園と号《なづ》け居りしが昨夜親子の困難を見殊に助太刀の頼み人は知らねど心の苦しさ又昨年蛍沢にて殺害したる車夫《しゃふ》徳藏は妻恋坂下にて新助殿を殺したる時に乗せたる車夫にて其の時取り落したる煙草入を所持なし居り是を買いくれよと云いかけられ是非無く殺害したるに新助殿妻おふみ殿の兄御《あにご》とは露知らず昨夜の物語に始めて知り兄|良人《おっと》の仇《あだ》申訳相立たず自害致し相果て候我等なき後々《あと/\》は我が財産は松山の御子達《おこたち》へ引渡し候処|実証《じっしょう》なり松山の家名は二人の子供を以て跡目相続を頼み入り候妻お久は年若故再縁致し候様我は兄貴の仇なり心を残さぬ様に斯《かく》書残し候
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 との書置に皆打驚き、匆々《そう/\》差配人差添えの上で訴えに相成ります。漸く事済《ことずみ》になって、此のおふみの子供をもて相続人に相定めまする。又お美代は後、後家を立て通して居りましたという。おふみが死去の後に子供等が引続きまして松山の家を立てまする。御徒町の腹切《はらきり》と人の噂を聞きまして、愚作なれど一冊のお話に纏《まと》めました、松と藤のお話でございますが、先ずこれで全尾《ぜんび》でございます。
[#地から1字上げ](拠酒井昇造、佃與次郎速記)



底本:「圓朝全集 巻の二」近代文芸資料複刻叢書、世界文庫
   1963(昭和38)年7月10日発行
底本の親本:「圓朝全集 卷の二」春陽堂
   1927(昭和2)年12月25日発行
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。
ただし、話芸の速記を元にした底本の特徴を残すために、繰り返し記号はそのまま用いました。
また、総ルビの底本から、振り仮名の一部を省きました。
底本中ではばらばらに
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