掴まえて慣れない奴が持上げて、ごろ/\引出したが、何うも思うように走りません。
車夫「はい/\」
幾らか頂戴したら早く引きますと云わぬばかりに故意《わざ》と鈍《のろ》く引出し、天神の中坂下《なかざかした》を突当って、妻恋坂《つまごいざか》を曲って万世橋《よろずばし》から美土代町へ掛る道へ先廻りをして、藤川庄三郎は、妻恋坂下に一万石の建部内匠頭《たてべたくみのかみ》というお大名が有ります、その長家《ながや》の下に待って居ましたが、只今と違ってお巡りさんという御役が有りません、邏卒《らそつ》とか云って時々廻る方《かた》が有った時分で、雨はどっと降出して来ましたから、往来はぱったり止って淋しい秋の雨で、どん/\降る中をのた/\やってまいる所を、待伏《まちぶせ》をして居りました庄三郎が、いきなり飛出して提灯を斬って落す。
車夫「あッ」
と梶棒を放して車夫《くるまや》が前へのめったから、急に車の中から出られません、車夫は逃げようとして足を梶棒に引掛《ひっか》け、建部の溝《みぞ》の中へ転がり落ちる。庄三郎は短刀を振翳《ふりかざ》し、
庄「覚えたか」
と突掛けて来ますると、覗《ねら》い違《たが》わず奧州屋新助の脇腹へ合口を突き通すという一時《いちじ》に手違いになりますお話でございます、一寸《ちょっと》一息継ぎまして後《あと》を申上げましょう。
四
えいさて私《わたくし》は夏休みの中《うち》、相州《そうしゅう》箱根から京阪の方へ廻って、久しゅう筆記を休んで居りましたが、申続きの美代吉庄三郎の身の上、奧州屋新助の事が大分に後《あと》が残って居りますこれは明治四年のお話でございます。明治四五年頃は御案内の通り頓と未だ開けない世の中では有りますが、漸《ようや》くに明治五年に此の散髪《さんぱつ》が流行《はや》りまして、頭を刈る時にも厭がって年を老《と》った人などが「何うか切りたく無い、切るくらいなら、寧《いっ》そぐり/\と剃《そり》こぽって坊主になった方が善《よ》かろう」それを取ッ攫《つか》まえて無理に切るなぞという、実に厭がりましたものであります。ところが只今では切らんければ恥のような訳で、実に昔切り立てには何故いやな彼《あ》んな頭をするか、厭らしい延喜《えんぎ》のわりい、とよく笑いましたものであったが、散髪《ざんぎり》が縁起が悪い頭だか、野郎頭の方が縁起が悪
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