認めがついて、短銃でパチンとやッつけたが、今度のは怪しいところが些《ちっ》ともないから無暗《むやみ》なことは出来ぬ、とじろり/\お若さんを見ては考えていらっしゃる、先刻《さっき》からいくら経っても伯父さんからお言葉が出ないので、
 若「伯父さん、私が重々不調法のだんはお詫いたします、何うか御勘弁あそばして、こゝへ伴《つ》れてまいったは岩次と申し、この人と神奈川におりますうち産みました子で、岩次、これがかね/″\お前にも話した根岸の伯父さんッてえので、お前には大伯父さんだから、よく御挨拶をなさい、柄ばかり大きゅうございますが、田舎で育ったんですから行儀も知りませんし、カラ意気地《いくじ》がありませんよ、伯父さん/\」
 と申しますから、言葉を交さない訳にはまいりませんので、晋齋老人も一通りの挨拶をよう/\なさいました。それから両人《ふたり》の身の上についていろ/\お聞きなされ、その間は少しでも油断なく御注意あそばしましたが、何うしても狐狸なんかでないようでげすから、ます/\不審であるから、これは病人でいるお若に遇わし二人を並べて置いての詮議より仕方がない、と御決心あそばし、
 晋「お若や、ちょいと此処《こゝ》へお出で、伊之助が尋ねてまいったから」
 と仰しゃると、一緒に参っているお若さんは平気できいている。只だ莞爾《にっこり》したばかりで不審らしい顔もしません。やがて奥から嬉しそうにして出てまいった病人のお若さん、これもたゞ莞爾いたして伊之助の傍《そば》へぴったり坐り、別に挨拶をするでもなく澄している。おどろきました伊之助、きょろ/\と両人《りょうにん》のお若さんを見まわし呆気にとられる。息子の岩次も俄にお母様《っかさん》が二人出来たのでげすから、これもボーッといたしています。晋齋老人は流石《さすが》に博識な方でげすから、二人のお若さんに目もはなさず御覧になっている。するとお若さんの形こそ両《ふた》つになっておりますが、その様子におきましては両人《ふたり》とも同じことです。一方のお若さんが物を言いかけますれば、言葉は発しませんが一方でも口をムグ/\いたしておる。また一方でお頭髪《つむり》をおかきになれば一方でもお櫛でお頭《つむり》をおかきなさる、そのさまが実に不思議でげす。そう斯ういたして居りますと高根さんの門外で容易ならぬ人ごえがするんで、晋齋老人耳をお立てなされ、縁側へお出《で》遊ばして生垣の外を御覧になると、若い男女《なんにょ》を三四人の男が引立てようといたしている。そのうちに女は何うすり脱《ぬ》けましたかバタ/\と晋齋の邸内へ逃込みました。窮鳥懐にいるときは猟夫も之れを射ずとか申すこともあり、晋齋はもとより慈悲深い方でいらっしゃるから、お内に二人のお若さんが現れてごた/\いたしている中でげすが、何うも見捨《みすて》ておくことがお出来なさらない。直ぐ書生さんにお命じなされ、兎も角もと門外の男もまた男女《ふたり》を引立《ひったて》ようといたす若いものも共にお呼込みに相成りました。さて、段々と様子をおきゝに成りますと、引立《ひきたて》られようと致した男女《ふたり》は品川の和国楼から逃亡した花里と伊之吉でございます。晋齋老人は眉をひそめ、これは怪《け》しからんことである、娼妓などを連れて逃亡するとは怪しからん。伊之吉といえば勝五郎の世話で深川の大芳棟梁のとこへ養子にやったお若の双児《ふたご》であるなと思召しますから、いよ/\恟りなされて左の眼のふちの黒痣《ほくろ》にお眼をお注《つ》けあそばしますと、あり/\正《まさ》にございますので、あゝ困ったものだ、併し不思議のこともある、親知らずに遣った伊之吉が、母のお若がいる家《うち》の前で品川の貸座敷の若いもの等においこまれ、己《おれ》の家へ来るというも因縁であると、何気なく花里の顔を御覧になると、これにも左の眼のふちに黒痣があって男女《なんにょ》差別こそありますが、貌《かお》だちから丈《せい》恰好がよく似ている、これはとまた恟りなさいまして、花里に親の名をお尋ねなさると、大阪で越前屋佐兵衞と申しましたが商業《しょうばい》の失敗で零落いたし、親の為め苦海《くがい》に身を沈めましたと、恥かしそうに物がたりますを晋齋老人とくとお聞きなされ、それではお前さんはお米といいましょうと仰しゃいます、花里も呆れいるところへ、奥の間から二人のお若さんがワッと泣きながら転げ出で、
 若「これ伊之吉やお米、お前の母は私ですよ」
 と意外の言葉に伊之吉とお米もびっくり致し、たゞじろり/\顔をながめるばかりでございます。晋齋老人は目をつぶッていらっしゃいましたが、あゝ怖しいものは因果だ、この親子は何うして斯うも幸ないであろうと、伊之吉お米が双児でありしことをお談《はな》しになってお嘆きあそばす。この両人《ふたり》もこれをきゝますと呆れるばかりで物がいわれません。やがて伊之助も岩次も出てまいり、親子兄弟不思議な邂逅《めぐりあ》いにたゞ/\奇異のおもいでござります。晋齋老人は花里のお米が身に付く借金を和国楼へ償却いたすことに相成り、この一埓《いちらつ》はつきました。さて伊之吉とお米でげすが双児|兄妹《きょうだい》ときゝては、お互いに身を恥じ何うも添遂げることが出来ません。そこが因果で別れることも出来ないところから、この両人《ふたり》はその夜《よ》のうち窃《ひそか》に根岸を脱出《ぬけだ》し、綾瀬川へ身を投げて心中した。死骸が翌朝《よくあさ》千住大橋際へ漂着いたしました。
 こゝに又二人のお若さんでげすが、何うも解らずに其の晩はお休みになった晋齋老人、いろ/\お考えになるとフイと思いあたられましたは離魂病という病で、この病は人間の身体が分身するもので、わかれている間は双方ともに何事もなく生きておれど、その分身した身体が一つ所に集《あつま》るときは二十四|時《とき》のうちに一方の身体は消えてしまい、一方の身体はそのまゝ死ぬものと古い本などに書いてあることを思い出され、いよ/\おどろいてお在《い》でなさると、果して伊之助と一緒に来たお若さんの身体が二十四時たつと見えなくなって、間もなく病人のお若さんの息が絶えました。伊之助も恟りいたして騒ぐをいろ/\お諭《さと》しなされましたが、これも因果と諦らめ、遂にその夜のうちに首をくゝって相果てました。わずか二日のうちに二《ふた》夫婦と影法師のお若さんが亡《なく》なり、晋齋老人の家《うち》は大さわぎでげす。これも因縁だ因果だと思召すから、それ/″\葬りのこと懇《ねんご》ろになされました。四人の死骸《なきがら》は谷中へ埋葬いたし、老人も落胆《がっかり》遊ばしていると、跡にとり残された岩次でございますが、まだ年も若いにいろ/\奇異のことを目前《めのまえ》に見きゝいたし、両親に別れたんですから現世《このよ》を味気《あじき》なくぞんじ、また両親や兄《あに》姉《あね》の冥福を弔《とむら》わんために因果塚を建立《こんりゅう》したいから、仏門に入れてくれと晋齋にせまります。老人も至極|道理《もっとも》のことゝ、ある住職にたのみ、岩次を仏門に帰依いたさせますると、それから因果塚建立という文字《もんじ》を染ぬきました浅黄《あさぎ》の幟《のぼり》を杖にいたし、二年余も勧化《かんげ》にあるき、一文二文の浄財をあつめまして漸《ようよ》う谷中へ一基の塚をたてました。扨《さ》て永々続きました因果塚の由来のお話もこれで終りと致します。



底本:「圓朝全集 巻の四」近代文芸資料複刻叢書、世界文庫
   1963(昭和38)年9月10日発行
底本の親本:「圓朝全集巻の四」春陽堂
   1927(昭和2)年6月28日発行
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。
ただし、話芸の速記を元にした底本の特徴を残すために、繰り返し記号はそのまま用いました。
また、総ルビの底本から、振り仮名の一部を省きました。
底本中ではばらばらに用いられている、「其の」と「其」、「此の」と「此」、「彼《あ》の」と「彼《あの》」は、それぞれ「其の」「此の」「彼の」に統一しました。
また、底本中では改行されていませんが、会話文の前後で段落をあらため、会話文の終わりを示す句読点は、受けのかぎ括弧にかえました。
※本作品中には、身体的・精神的資質、職業、地域、階層、民族などに関する不適切な表現が見られます。しかし、作品の時代背景と価値、加えて、作者の抱えた限界を読者自身が認識することの意義を考慮し、底本のままとしました。
入力:小林 繁雄
校正:かとうかおり
2000年6月30日公開
青空文庫作成ファイル:
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