の酒屋の隣が甚兵衞の家《うち》でございますから、伊之助はズン/\這入ってまいる。スルと奥の方で若い女の声がして甚兵衞爺さんも婆さんも頻《しき》りに慰さめている様子。ハテ悪いところへ来たわい、誰か客があるのか知らんと思いましたが、引返《ひっかえ》して出て行《ゆ》くも変ですから、
伊「爺やさん、お達者でございますか」
と声をかけますと、甚兵衞は、
爺「婆さんや誰か来たようだぜ、ちょっくら見て来さっしゃい」
というので婆さんは入り口へ出てまいると、伊之助が立って居りますから恟《びっく》りいたし、挨拶もいたさずに、
婆「やア、来さしッた/\、お若さん、伊之助さんが来さッした」
と喜ぶので伊之助もおどろきましたね、婆さんがお若さんと呼びますからは、確《たしか》にお若が此処《こゝ》に来ているにちがいない、と不思議で堪りません。お若は老人夫婦と何うか伊之助を探す手だてをと相談しているところでげすから、飛立つ思いで出てまいり、此処でお互いに無事の顔見て安心いたし、それから甚兵衞の厄介になって暫らく居ますうちに、お若さんのお腹《なか》は段々と脹《ふく》れて来るので、遠走りもすることが出来ぬところから、遊んでもいられません。と云って外《ほか》に何もすることがない。田舎ではございますが追々|開《ひら》けてまいり、三味線などをポツリ/\と咬《かじ》る生意気も出来て来たは丁度幸いと、伊之助は師匠をはじめ、お若は賃仕事などいたし、細々ながら暮している。そのうちにお若は安産いたし、母子《おやこ》とも肥立《ひだち》よく、甚兵衞夫婦は相変らず親切に世話してくれます。お若伊之助は夫婦になって田舎で安楽に暮して居ります。生れた子供も男で伊之助のい[#「い」に黒丸傍点]の字とお若のわ[#「わ」に黒丸傍点]の字を取って岩次《いわじ》と名をつけ、虫気《むしけ》もなくておい/\成長してまいるが、子供ながら誠に孝心が深いので夫婦も大層喜んでいました。これより暫らくは夫婦の上には何事のおはなしもございませんが、末になると全く離魂病の骨子《こっし》をあらわし、また因果塚のよって起《おこ》ることゝ相成るのでございます。こゝに品川の貸座敷に和国楼《わこくろう》と申すのがございまして大層|流行《はや》ります。娼妓も二十人足らず居り、みんな玉が揃っているので、玉和国と、悪口をいう素見《ひやかし》までが誉《ほ》めそやしているぐらいでげす。今日は暇だと申しても一人で二人ぐらいのお客は屹度《きっと》ある。忙しいと来たら五六人ずつはありますからなか/\廻しが取れません。甚助《じんすけ》をおこす客もあるが怒《おこ》って出て行《ゆ》くものゝないも訝《おか》しい。それで安直|店《みせ》と来ていますから滅法な流行りかた、この楼《うち》に小主水《こもんど》と呼ばれて全盛な娼妓がある、生れはなんでも京阪《けいはん》地方だと申すことで、お客を大切《だいじ》にするが一つの呼《よび》ものになっています。この小主水の部屋から妹分で此のごろ突出《つきだ》された一人の娼妓《こども》は、これも大阪もので大家《たいけ》の娘でございましたが、家《うち》の没落に身を苦界《くがい》に沈め、夜《よ》ごとに変る仇枕《あだまくら》、朝《あした》に源兵衛《げんべえ》をおくり、夕《ゆうべ》に平公《へいこう》をむかえております。この者の名を花里《はなざと》といい頗《すこぶ》る美人でげすから、忽《たちま》ちのうちに評判になり、
○「コウ熊ア、玉和国の花里てえのはすばらしいもんだとよ」
△「ウム左様《そう》よ、土地|第一《でえいち》の別嬪《べっぴん》だとよ」
○「手前《てめえ》おがんだか」
△「己《おい》らア、仕事を仕舞うと直ぐこれで三晩おがみに来るが、彼奴《きゃつ》流行妓《はやりッこ》だからなア、まだお目にぶら下らねえのさ、今夜ア助見世《すけみせ》に出アがるとこでもと先刻《さっき》から五度《ごたび》まわったが、よく/\御縁がねえのだ、明日《あす》の晩は半纒を打殺《ぶちころ》しても登楼《あが》らねえじゃア気がすまねえや」
○「素敵に逆上《のぼせ》ていアがるわ、顔も見ねえ女に夢中になる奴もねえぜ」
△「馬鹿|奴《め》、美人《いゝ》に極ってらア」
なんかと騒ぐものもあるほどでげすから、其の全盛は思いやられます。軍艦が碇泊《ていはく》すると品川の宿《しゅく》は豊年でございます。皆様御存知のとおり海上にあって毎日事務をとってお在《いで》なさるお方々でげすから、何《いず》れの港になりと船が泊りますることになると、それ/″\にお暇が出て日頃の骨休みをなさる。成程そうでございましょう。軍人方でいらせられますから、いざ戦争という場合になりましては申すまでもないことで、甲板に屍《かばね》をさらすとも一歩もお引き遊ばすなどという卑怯未練
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