、何うも頼みにして参る人がない、ハテ困ったものであるが、誰か親切らしい人はないものかと二人とも無言で頭をなやまして居ります。そうすると伊之助は莞爾《にっこり》いたして、
 伊「いゝ処《とこ》がありますぜ、東京《こちら》から遠くはありませんがね、私《わし》が行って頼んだら情《すげ》なくも断るまいと思うんで、あれなら大丈夫だろう」
 若「そう何処《どこ》なの、お前さんの知ってる家《うち》ならいゝけれど、余《あん》まり近いと直ぐ知れッちまってはねえ、何処、何処なの」
 伊「ナニ知れる気遣いはない……鳶頭だって知ってる筈はなし、伯父さんだって猶さら御存知の気遣いはないとこ、あゝ好《いゝ》とこを思い出した」
 若「お前さんばかり、好とこだ/\と言ってゝ一体どこなんだねえ」
 伊「何処ッてえでもねえが、私《わし》が子供のころに里にやられていた家《うち》で、今じゃア神奈川の在にはいって百姓をしているんさ、まア兎も角もそこに落著いて、それから緩《ゆっく》り相談することに仕ましょうよ」
 若「おや左様《そう》なの、お前さんの里に行ってた家、じゃアその人は余程《よっぽど》のお婆さんになってるだろうね、こんな風をして行くも何《なん》だか極りが悪いけれど、外に頼るものがないんだからねえ」
 伊「ナニさ、心配しなさることはないよ、爺い婆アの二人暮しでいるんだから、私《わし》が頼めば一時《いちじ》は小言をいうかも知れないが、憎いとは思うまいから何うにか世話をしてくれるよ」
 若「そうかねえ、それでは其処《そこ》へ行《ゆ》くことに仕ましょうが、今から直ぐ二人で此処《こゝ》を出ては人目にかゝってよくないがね、何うしょう」
 伊「昼日中《ひるひなか》二人で出てはいけない、今夜の仕舞汽車で間にあうように、そして横浜まで落延びておいて、明朝《あす》一緒に往《ゆ》こう」
 若「あゝ、だけれど先方《さき》で嘸《さ》ぞ恟《びっく》りするだろうね、まアお前さん何《なん》てッて往くつもりなの」
 伊「ハヽヽヽヽ詰らぬ心配したって仕方がないよ、外に何《なん》とも言方《いいかた》がないじゃアないか、矢ッ張り駈落をして来たというより仕様がないのさ」
 若「ホヽヽヽヽ何《なん》だか極りが悪くって」
 と相談は極りましたから、それでは今夜と伊之助は分れて根岸を出てまいります。お若さんは今夜駈落を為《し》ようというんですから、そわ/\して手荷物の支度をしてお在《いで》なさる。すると丁度お昼すぎに伯父の晋齋がぶらりと遣《や》って参ったんで、お若さんはギョッとしました。今朝鳶頭に伊之助の来ているところを見付けられたあとですから、てっきり伯父が私の様子を見に来たにちがいない、鳶頭がまさか明白《あからさま》に伊之さんの来ていたことは言いもせまいとは思いますが、若《も》しひょっと伯父さんに言ったので来たのではないか知らん、何《なん》にしても悪いところへ来たと変な顔をしております。晋齋は朝の様子をきいたのだか聞かぬのだか分りませんが、常にかわらず莞爾《にこ/\》はして居りますが、何うも腹のうちに憂いのあるらしく思われますは、眉のあいだに何《なん》となく雲でもかゝっているように、うるさいという風が見えるので、お若さん一層の心配でたまりませんから、お腹《なか》の中ははら/\としてひっくりかえるようでげす。それを見せてはならぬと十分に注意は為《な》さいまするが、なか/\見せずにおくと申すことは出来ないもので、余ッぽど偉い人でなければ喜怒哀楽を包み隠していることは出来ないそうですから、晋齋も素振の訝《おつ》なのに心はついて居りましたが、がみがみと小言を申したりなんかすると間違いでも仕出来《しでか》さんに限らないと、物に馴れておいでなさるお方でげすから、態《わざ》と言葉づかいも和《やわ》らかに、
 晋「お若、なんだ片付けものを始めたのか、ハヽヽヽヽ如何《いか》に世捨人になっても女というものは、矢っ張りそんな事をいたしておるか、こんだは大分《だいぶ》頭《つむり》も生えたようだな」
 お若は伯父の底気味わるい言葉にハッと思って胸はおどりましたが、覚《さと》られまいと態と何気なく
 若「昨日《きのう》から剃《す》りましょうと思ってるんですけれど、何《なん》だか風邪気のようですから、本当《ほんと》に汚ならしくなったでしょう」
 晋「感冐《かぜ》をひいたか、そりゃ大切《だいじ》にしないと宜しくないよ、感冐は万病の原《もと》と申すからの」
 若「はい有難うございます」
 晋「今日はの些《ちっ》とお前に相談することがあって来たのだから、まア此処《こゝ》へ来なさい」
 と申されていよ/\心配でなりません。さては勝五郎が喋ったにちがいない、こんなことゝ知ったなら伊之さんと直ぐ駈落をしたもの、まさか伯父さんに言付けはしまいと思
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