廻船に注意いたしつゝ、そっと首をあげまして石垣につかまり、伸びあがって楼内《うち》の様子をうかゞっていまする。と、庭は真闇《まっくら》でげすから些《ちっ》とも分りませんが、海面に向ってある裏木戸のところで、コツリガチャリという音がするので、伊之吉は恟りいたし伸した首をちゞめ、また舟の中に小さくなっている、錠でも外すような音がいよ/\耳につきますから、またそっと伸あがって木戸のあたりを透《すか》して見ますると、暗夜《やみ》で判然《はっきり》とは分りませんが、何《なん》だか白いふわり/\としたものが見えました。それから熟《よ》く耳を澄《すま》してきゝますと人の息をするようでげすな。ハテ来たなと思いますから、怖々《こわ/″\》石垣の上へあがり匍這《はらばい》になって木戸のところまで匍《は》ってまいり、様子をきゝますと内のものは外に人がいると知りません模様で、しきりに錠を外そうといたしておりますから、伊之吉も今時分こゝへ外《ほか》のものが来る筈はないとぞんじ、静かに木戸の際《わき》へ立ちよりまして、
伊「花魁かい」
と声をかけました。大抵なら先方《さき》でも恟りするんでげすが、そこは約束のしてあることでございます。先方でも些《ちっ》とも驚いた模様もありませんで、
花「伊之さんですか」
と焦《じ》れてガチリと音させ、よう/\錠をはずし木戸をひらき、出てまいりますと、只|何《なん》にも言わず伊之吉に取りすがって顫《ふる》えております。伊之吉とてこんなことを遣るは臍《へそ》の緒きって始めての芸で、実は怖《おっ》かな恟りでおるんでげすが、何《なん》と云ってもそこへまいると男は男だけの度胸のあるもので、
伊「これ、折角斯うして逃げ出したもんだから、早くこの舟に乗んねえな、ぐず/\していて見附けられた日にゃア、虻蜂とらずで詰らねえからな、エヽもうちっとだ確《しっ》かりしねえな」
と小声で申しながら、花里の手を取って、怖《おっか》ながるをよう/\舟にのせましたので、まアと一安心いたしましたが、早くこゝを遠走《とおばし》ッて仕舞わないと大変と存じますから、花里には舟底のところに忍ばせ上から苫《とま》をかけまして、伊之吉は片肌ぬぎかなんかで櫓《ろ》を漕《こ》いで、セッセと芝浜の方へまいります。それも燈火《あかり》がなくては水上の巡廻船に咎《とが》められる恐れがありますから、漁師が夜網《よあみ》など打ちにまいるとき使う、巡査《おまわり》さんが持っていらっしゃる角燈《かくとう》のようなものまで注意して持ってきているから、それに燈火《あかし》をいれて平気で漕いでまいりました。いまは品川も遥かあとになりましたから、ホッと息をつき、
伊「花里さん、もう些《ちっ》とだから辛抱しておいでよ、ちょいと首を出して御覧、品川はあんなに遠くなったから、此処《こゝ》まで来れば大丈夫|鉄《かね》の鞋《わらじ》だ、己《おい》らは強《えら》くなったぜ」
花「そう、本当《ほんと》にすまないことね、お前さんに此様《こんな》苦労までかけてさ、堪忍して下さいよ、これも前世からの約束ごとかも知れないわ」
伊「何も礼をいうことアねえや、お互《たげ》えに斯うなってるんだから」
花「今度の事には姉さんに、まアどんなに心配をかけたか知れないので」
伊「そうよ、小主水[#「小主水」は底本では「小主人」と誤記]姉さんには本当にすまねえが、実に彼《あ》の人は両人《ふたり》が為には結ぶの神だよ」
花「はア本当にそうですわ」
伊「両人が落著《おちつ》いたら何うしてもこの恩を報《かえ》さねば、畜生《ちきしょう》にも劣るから、己らは」
と跡|言《いい》かけまするとき、ギイ/\と櫓壺の軋《きし》る音がして、燈火《あかし》がちらり/\とさす舟が漕ぎまいります。伊之吉は俄に花里を制し、また元の如く苫を冠《かぶ》らせてしまいました。さて和国楼でございますが、肝腎《かんじん》の花里がいま身請の酒宴《さかもり》と申す最中《もなか》に逃亡いたしたんですから、楼中の騒ぎは一通りではありません、上を下へとゴッタ返して探しましたが、中々知れそうな理由《わけ》はありません。まさか伊之吉が舟を持って来て連れていったとは知れよう筈がない。海の中にいるんでげすから陸《おか》を探したとて跡のつく気遣いなし。海上も一時はカッと怒《いか》られて、外のものに当り散らしては見たが、相手のない喧嘩は何うもはえないもので、到頭そのまゝ泣き寝入で、只《た》だ器量を下げてお引下がりになりました。併し和国楼では、花里に逃げられたから、それで宜《よ》いわと済まされませんから、それ/″\の手続きも致さねばならぬ、品川警察へ逃亡のお届けをいたし、若しや伊之吉のところへ参って居らぬかと、追手を出して探させましたが、さっぱり解らず、伊之吉は平
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