ゥ東か一向見分けも付かぬくらいで、そこらに船でもあれば、船は微塵《みじん》と砕けるは必定《ひつじょう》、実《げ》に三人の命は風前の燈火《ともしび》の如くであります。流石《さすが》に鉄腸強胆《てっちょうごうたん》な文治も、思わず声を挙げまして、
「不幸なる我が運命、何卒《なにとぞ》敵《かたき》を討つまでは、文治が命をお助けあれ、神々よ武士の一分《いちぶん》立てさせ給え」
もう斯《こ》うなっては何人《なにびと》も神仏を頼むより外《ほか》に道はございませぬ。二人の船頭も大声を挙げて思い/\の神々を祈って居りますが、風雨は一向|歇《や》む模様はございませぬ。
吉「もう兎《と》てもいけやせん、日頃悪事の報いか、魚《うお》の餌食《えじき》となるは予《かね》ての覚悟だ、仕方が無《ね》え、南無阿弥陀仏/\」
庄「えゝ縁起の悪い奴だ、何を云ってやがる、手前《てめえ》や己《おら》ア生れて此方《こっち》悪事を働いた覚えは無《ね》え、確《しっ》かりしろえ、舟乗稼業《ふなのりかぎょう》は御年貢《ごねんぐ》だ、旦那アまだ宜しゅうごぜえやす、どうぞ神様をお頼み申して下せえやし」
と三人とも手に手を尽して漕いだ甲斐もなく、とうとう日は暮れて四方八方|黒白《あやめ》も分らぬ真の闇、併《しか》し海は陸《おか》と違いまして、どのような闇でも水の上は分りますが、最早《もはや》三人とも根《こん》絶え力尽きて如何《いかん》とも為《せ》ん術《すべ》なく、舟一ぱいに水の入った其の中へどッかり坐って、互に顔を見合せ、只|夜《よ》の明けるのを待つのみでございますが、そうなると又長いもので、中々夜が明けませぬ。運を天にまかして船の漂うまゝに彼方《あちら》へ揺られ、此方《こちら》へ流されて居ります内に、東の方がぼんやりと糸を引いたように明るくなりました。さては彼方が東か知らん、夜が明けたら少しは風も静まるであろうと思いの外《ほか》、明るくなっても風は止まず、益々|烈《はげ》しく吹いて居りまする。三人とも心付いて見ると、櫓櫂《ろかい》も皆吹流されてしまいました。
船頭「やア、これじゃア風が止んだって何処《どこ》へも往《ゆ》かれることじゃねえ、情《なさけ》ねえな、吉、もう是までの運命と諦めろ」
文「まア/\待て、決して短気な事をしては成らんぞ、今にも大船《おおぶね》が通らぬとも限らぬ、又異国の船でも此の難儀を見れば助けてくれるは人情だ」
と云って居ります中《うち》に、風は漸《ようや》く凪《な》いでまいりました。
文「やア大分風が静かになって来た、これで天気になったらば、また助ける風も吹くであろう、死ぬも生きるも約束だ、各々《おの/\》確《しっ》かりしろよ」
船「有難うござりやす、旦那の方が気が丈夫だ、こうなっちゃア人間|業《わざ》で助かる訳にゃア往《い》かねえ、どうか旦那、神様を信心して下せえ」
文「そち達も信心が肝要だぞ」
吉「なアに此方《こち》とらア信心したって神様が……」
庄「やい何を云うんだ、確《しっ》かりしろよ、気が違ったか、心を改めて信心するが肝心だ、ねえ旦那」
文「そうとも/\、それ天気になった、風も止んだぞ」
庄「やア、こりゃア有難《ありがて》え、これと云うのも信心のお蔭だ、何《なん》しろあか[#「あか」に傍点]を掻かざアなるめえ」
吉「だって、あか[#「あか」に傍点]掻《かき》も何も流されてしまったじゃアねえか」
時に文治は、
文「よし/\、こゝに宜《よ》い物がある」
吉「へえ、宜い物って何《なん》ですか」
文「宿屋から持って来た弁当箱がある」
吉「何処《どこ》に」
文「此の通り腰にぶら下げて居《お》る、飯も菜《さい》も沢山あるが、これを明けてから気長に掻い出そうじゃないか」
吉「旦那、飯をお棄てなせえますか、そりゃア勿体ねえ、これから何日食わずに居《い》るか知れやしねえ、旦那、勿体ねえじゃ有りませんか」
文「いや私《わし》は食べとうない」
吉「旦那、棄てるのなら私《わっち》に下せえまし、弁当も何も此の暴風《あらし》で残らず流してしまったア、旦那が上らねえなら私どもに下せえな」
文「いや/\これは食わぬ方が宜《よ》かろう」
両人「なアに勿体ねえ、少しぐらい汐《しお》が入っても此の場合だ、飯と聞いちゃア食わずには居《い》られねえ、何《ど》うか下せえな」
文「そんなら上げもしようが、中《あ》てられるなよ」
吉「大丈夫、さア庄《しょう》、あか[#「あか」に傍点]は後《あと》にして先ず二人で遣付《やっつ》けようじゃねえか、成程こいつア中々|旨《うめ》え」
と二人とも十箇《とお》ばかりの握飯《むすび》と菜《さい》まで残らず食《しょく》してしまいました。
二十九
吉「さア重箱が殻《から》になった、これから気長に
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