いますな」
 藤「なに、むずかしい、そんなら少しも早く奥へ」
 森「どうか此方《こちら》へ……旦那え、藤原様と御新造《ごしんぞ》様がおいでになりました」
 文「おゝそうか、さア此方へ、やア何《ど》うも暫く、お萓か、よくおいでだ」
 両人「お母様が大層お悪いそうで、さぞ御心配でございましょう」
 文「はい/\有難う、今度は些《ち》とむずかしかろうよ」
 藤「それは何《ど》うも、併《しか》し私《わたくし》どもの顔が分りましょうか」
 文「いや少しは分りそうだ、兎も角も此方へ……お母様《っかさま》、藤原|氏《うじ》がまいりました、お母様、分りましたか、お萓も一緒に……」
 藤「伯母様、藤原喜代之助でござる、お萓も一緒に、分りましたか、大層お瘁《やつ》れ……」
 と申しますと、病人に通じたものと見えて、「おゝ」と少し起上ろうと致しますから、
 藤「どうか其の儘にして」
 母「永いことお世話になりました、此の度《たび》はもうこれがお訣《わか》れで、お萓は御存じの通り外《ほか》に身寄もなき不束者《ふつゝかもの》、何《ど》うぞ幾久しゅう、お萓や見棄てられぬように気を付けなよ、それでも文治の嫁が思ったより優しいので、何《ど》の位安心したか知れません、もう是で思い残すことはありません」
 此の時台所の方に当って頻《しき》りに水を汲んでは浴《あび》せる音が聞えまする何事か知らぬと一同耳をそばだてますると、
 「南無大聖不動明《なむだいしょうふどうみょう》……のうまく……む……だあ……」
 文治はそれと心付きまして、手燭《てしょく》を持って台所の戸を明けますと、表は霙《みぞれ》まじりに降《ふり》しきる寒風に手燭は消えて真黒闇《まっくらやみ》。
 文「誰だえ」
 一向答えがありませぬ。一生懸命ざあ/\と寒水を浴びては「南無大聖不……」
 文「おい、誰か提灯《ちょうちん》を持って来てくれ」
 藤原が提灯を持ちまして袖《そで》に隠し、燈火の隙間《すきま》から井戸端《いどばた》を見ますると、お浪《なみ》が単物《ひとえもの》一枚に襷《たすき》を掛け、どんどん水を汲《くん》では夫|國藏《くにぞう》に浴せて居ります。國藏は一心不乱に眼《まなこ》を閉じ合掌して、
 「南無大聖不動尊、今一度お母上様《はゝうえさま》の御病気をお助け下さりませ」
 文「これ其処《そこ》に居《お》るのはお浪じゃないか、國藏待て、その親切は千万《せんばん》辱《かたじ》けないが、まア/\此処《こゝ》へ来い、お浪や早く國藏に着物を着せてやれ、森松、國藏夫婦は何時《いつ》の間《ま》に来たのだ」
 森「へえ、藤原様のおいでの少し前、いつもは蔵前の不動様へまいるんですが、今夜は御門が締りましたそうで」
 文「うむ、毎夜此の通りか、寒中といい況《ま》して今夜は此の大雨に……國藏、お前の親切は千万辱けないがな、命数は人の持って生れたものじゃ、寿命ばかりは神にも仏にも自由になるものじゃアない、神様や仏様は人の苦しむのを見て悦びなさる筈《はず》はないが、人が物を頼むにも無理力《むりぢから》を入れて頼んだからって肯《き》くものではない、お前も同じ人に生れていながら、この寒空《さむぞら》に垢離《こり》など取って、万一身体に障《さわ》ったら、それこそ此の上もない不孝じゃないか、お前の親切は届いて居《お》る、もう/\止してくれよ」

  四

 文治は國藏夫婦の水垢離《みずごり》を諫《いさ》めて居りますると、妻のお町が泣声にて、
 町「旦那様ア、お早く/\」
 文「なに、お母様《っかさま》が息を…」
 と病間に駈戻り、
 文「お母様、お母様、ほい、もういかんか」
 町「お母様ア、お母様ア」
 文「これ/\お町、そう泣悲《なきかなし》んでも仕方がない、もう諦めろ」
 萓「伯母様《おばさま》え、伯母様え、もう是がお別れか、伯母様え」
 藤「お萓、そう呼ぶものではない、文治殿、さぞ/\御愁傷《ごしゅうしょう》でござりましょう」
 文「いや永い御苦労を掛けました、あゝ何《ど》うも、思えば私《わたくし》も不孝を尽しましたなア」
 お町を始め一同顔を揃《そろ》えて言葉もなく、鼻詰らして俯向《うつむ》く折から、表の方《かた》で慌《あわた》だしく、
 「森松々々」
 森「おうい、豊島町《としまちょう》の棟梁《とうりょう》か」
 これは亥太郎《いたろう》という豊島町の棟梁でございます。
 亥「おゝ亥太郎だ」
 森松が立って戸を明けますると亥太郎は息急《いきせ》きながら、
 亥「森松、お母様《ふくろさま》は」
 森「たった今……」
 亥「えッ、亡《なくな》りなすったか、道理で新しい草鞋《わらじ》が切れて変だと思った、えゝ間に合わなかったな」
 森「昨日《きのう》からむずかしいから、お前さんの所へ知らせに往《い》くとな、今朝早く成田へ立
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