後の業平文治
三遊亭圓朝
鈴木行三校訂編纂


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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)此の度《たび》

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)御維新|前《まえ》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#「しら」に傍点]

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)すじ/\
   さん/″\(濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」)
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  一

 えゝ此の度《たび》は誉《ほま》れ高き時事新報社より、何か新作物を口演致すようとの御註文でございますから、嘗《かつ》て師匠の圓朝《えんちょう》が喝采《かっさい》を博しました業平文治《なりひらぶんじ》の後篇を申上げます。圓朝師が在世中、数百の人情噺《にんじょうばなし》を新作いたしました事は皆様が御承知であります。本篇は師が存生中《ぞんしょうちゅう》、筋々《すじ/\》を私《わたくし》にお話しになりました記憶の儘《まゝ》を申上ぐる次第であります。そも私《わたくし》が師匠の門に入《い》りましたのは御維新|前《まえ》で、それから圓橘《えんきつ》となりましたのが明治二年の五月でございます。まだ其の頃は圓朝師も芝居掛り大道具というので、所謂《いわゆる》落語と申しましては一夜限り或《あるい》は二日続きぐらいのもの、其の内で永く続きましたのが新皿屋敷《しんさらやしき》、下谷義賊《したやぎぞく》の隠家《かくれが》、かさねヶ淵《ふち》の三種などでございます。それより素話《すばなし》になりましてからは沢《さわ》の紫《むらさき》(粟田口《あわだぐち》)に次《つい》では此の業平文治でございます。その新作の都度《つど》私《わたくし》どもにも多少相談もありましたが、その作意の力には毎度ながら敬服して居ります。師匠は皆様が御存じの通り、業平文治は前篇だけしか世に公《おおやけ》にいたしませぬが、その当時|私《わたくし》は後《のち》の文治の筋々を親しく小耳に挟《はさ》んで居りました。即《すなわ》ち本篇が師匠の遺稿にかゝる後の業平文治でございまする。さて師匠存生中府下の各|寄席《よせ》で演じ、または雑誌にて御存じの業平文治は、安永の頃|下谷《したや》御成街道《おなりかいどう》の角に堀丹波守《ほりたんばのかみ》殿家来、三百八十石|浪島文吾《なみしまぶんご》という者の忰《せがれ》でございまして、故《ゆえ》あって父文吾の代より浪人となり、久しく本所《ほんじょ》業平橋《なりひらばし》に住居《すまい》いたして居りましたが、浪人でこそあれ町地面《まちじめん》屋敷等もありまして、相応の暮しをして居りました。で、業平橋に住居して居りました処から業平文治といいますか、乃至《ないし》浪島を誤って業平と申しましたか、但《たゞ》しは男の好《よ》いところから斯《か》く綽名《あだな》いたしたものかは確《しか》と分りませぬ。併《しか》し天性弱きを助け強きを挫《ひし》ぐの資性に富み、善人と見れば身代《しんだい》は申すに及ばず、一命《いちめい》を擲《なげう》ってもこれを助け、また悪人と認むれば聊《いさゝ》か容赦なく飛蒐《とびかゝ》って殴り殺すという七|人力《にんりき》の侠客《きょうかく》でございます。平生《へいぜい》荒々しき事ばかり致しますので、母親も見兼て度々《たび/\》意見を加えましたが、強情なる文治は一向|肯入《きゝい》れませぬ。情深《なさけぶか》き母親も終《つい》には呆れ返って、「これほど意見しても肯かぬ気性の其方《そち》、行《ゆ》く/\は親の首へ縄を掛けるに相違ない、長生《ながいき》して死恥《しにはじ》を掻こうより寧《いっ》そのこと食事を絶って死ぬに越したことはない」と涙を流しての切諫《せっかん》、それを藤原喜代之助《ふじわらきよのすけ》が見兼て母に詫入《わびい》れ、母は手ずから文治の左の腕に母という字を彫付《ほりつ》け、「以来は其の身を母の身体と思って大切にいたせよ」と申付けまして、それからというものは一切表へ出しませぬ。さア今まで表歩きばかりしていた者が、俄《にわか》に家《うち》にばかり居《お》るようになりましたから、少しく身体の具合が悪くなりました。母も心配して、気晴しに参詣《さんけい》でもするが宜《よ》いと云われて、母と同道で本所の五つ目の五百|羅漢《らかん》へ参詣の帰り途《みち》、紀伊國屋友之助《きのくにやとものすけ》の大難を見掛け、日頃の気性|直《す》ぐに助けようとは思いましたが、母の手前そういう訳にもまいりませぬから、渋々《しぶ/\》我家《わがや》へ帰り、様子を尋ねますると、友之助という者が大伴蟠龍軒《おおともばんりゅうけん》と賭碁《かけご》を打って負けましたので、女房お村を奪《と》られた上に、百両の証文が三百両になっているという、
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