の忰《せがれ》でございまして、故《ゆえ》あって父文吾の代より浪人となり、久しく本所《ほんじょ》業平橋《なりひらばし》に住居《すまい》いたして居りましたが、浪人でこそあれ町地面《まちじめん》屋敷等もありまして、相応の暮しをして居りました。で、業平橋に住居して居りました処から業平文治といいますか、乃至《ないし》浪島を誤って業平と申しましたか、但《たゞ》しは男の好《よ》いところから斯《か》く綽名《あだな》いたしたものかは確《しか》と分りませぬ。併《しか》し天性弱きを助け強きを挫《ひし》ぐの資性に富み、善人と見れば身代《しんだい》は申すに及ばず、一命《いちめい》を擲《なげう》ってもこれを助け、また悪人と認むれば聊《いさゝ》か容赦なく飛蒐《とびかゝ》って殴り殺すという七|人力《にんりき》の侠客《きょうかく》でございます。平生《へいぜい》荒々しき事ばかり致しますので、母親も見兼て度々《たび/\》意見を加えましたが、強情なる文治は一向|肯入《きゝい》れませぬ。情深《なさけぶか》き母親も終《つい》には呆れ返って、「これほど意見しても肯かぬ気性の其方《そち》、行《ゆ》く/\は親の首へ縄を掛けるに相違ない、長生《ながいき》して死恥《しにはじ》を掻こうより寧《いっ》そのこと食事を絶って死ぬに越したことはない」と涙を流しての切諫《せっかん》、それを藤原喜代之助《ふじわらきよのすけ》が見兼て母に詫入《わびい》れ、母は手ずから文治の左の腕に母という字を彫付《ほりつ》け、「以来は其の身を母の身体と思って大切にいたせよ」と申付けまして、それからというものは一切表へ出しませぬ。さア今まで表歩きばかりしていた者が、俄《にわか》に家《うち》にばかり居《お》るようになりましたから、少しく身体の具合が悪くなりました。母も心配して、気晴しに参詣《さんけい》でもするが宜《よ》いと云われて、母と同道で本所の五つ目の五百|羅漢《らかん》へ参詣の帰り途《みち》、紀伊國屋友之助《きのくにやとものすけ》の大難を見掛け、日頃の気性|直《す》ぐに助けようとは思いましたが、母の手前そういう訳にもまいりませぬから、渋々《しぶ/\》我家《わがや》へ帰り、様子を尋ねますると、友之助という者が大伴蟠龍軒《おおともばんりゅうけん》と賭碁《かけご》を打って負けましたので、女房お村を奪《と》られた上に、百両の証文が三百両になっているという、
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